今でこそ誰もが持つようになった携帯電話だが、かつては“携帯”とは言いながらも巨大な代物で、大変な高級品だった。そんな携帯電話にまつわるエピソードを、スポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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私は鈴木正の顔をじっと見て、「だよネ」と言った。鈴木もしばらくしてから、「だよネ」と返してきた。1999年に横浜に入団した、古木克明の激励会の時だった。
南海の内野手だった鈴木は、引退後マネージャーとなり、ダイエーのスカウトなどを担当。2002年に60歳で亡くなるが、晩年は故郷の三重県でボーイズリーグを指導していた。古木(三重出身)はその時の教え子だった。
古木は打力の評価が高く、あの長嶋茂雄も「必ず全日本の4番になる」と明言していた。そのためアテネ五輪(04年)の長嶋ジャパンの選手選考では大いに期待されたが、長嶋が病魔に倒れると結局落選。指導者が替わると状況はこうも変わるものかと思ったものである。冒頭の会話は、古木が“将来、日本を背負う大砲として活躍する”ことを、師である鈴木に確認したものだった。
鈴木は生真面目な男であった。思い出すのは南海の東京遠征時、食事に誘った時のこと。南海は後楽園球場の前にある「ホテルサトー」を定宿にしていた(といっても、主力たちはほとんど自宅か女性の家に泊まっており、着替えるためだけにホテルに戻ってくるのが実情だった)。
球団が泊まるとほぼ満室だったが、私も校了が重なった時などは、関係者に混ぜて泊まらせてもらった。そのお礼に、東京で一番うまいラーメンを食べようと、当時は屋台だった『ホープ軒』(現在は千駄ヶ谷に店舗が存在)に行くことにしたのだ。
だが鈴木が部屋から出てこない。連絡すると、「ちょっと待っていてくれ。どうしても3円合わない」と言う。その日のうちに仕事をすべて終えないと気が済まない鈴木は、収支表をつけていたのだ。結局、1時間半後に降りてきた。硬貨は財布の縫い目に引っかかっていたという。
1銭たりとも間違いの許されないマネージャー稼業。ある意味、鈴木の天職だったのかもしれない。ちなみに似た者同士で相性が合ったのか、『あぶさん』の漫画家・水島新司とは妙に仲が良かったのを覚えている。
鈴木はいつもジュラルミンケースを抱えていた。そこには常に現金100万円に加え、マネージャー業に必要な道具が入っていた。大型時刻表、南海のレターヘッドつき便せん、ソロバン、小切手、領収証、金銭収支表、そして当時流行し始めていた、弁当箱のような巨大な携帯電話。12球団で最初に使い始めたのは南海だったという。
用途はもっぱらホテルへの連絡。経費の厳しい南海球団ではキャンセル料もバカにならず、試合前に電話しておく必要があったのだ。弱小球団故の悲哀でもあった。
※週刊ポスト2014年5月9・16日号