JR新宿駅から歩いて10分ほど、よほど注意していないと見過ごして通り過ぎる角地に、時代から取り残されたような小さな建物がある。狭い階段を地下へ下りていくと、真っ白なコック服に身をつつみ、笑顔で迎えてくれるのが、居酒屋『西尾さん』を経営する西尾尚さん(57才)だ。
西尾さんは、中学卒業後、寿司店で7年間修業、その後、大学の生協食堂や居酒屋『楽(現・汁べゑ)』などに勤務し、2004年、独立して新宿3丁目に『西尾さん』を開店。そして、自らの人生を語った『居酒屋「西尾さん」のぬくもり酒」(光文社/1728円)の著者でもある。
17時からの開店に備えて、仕込みに大忙しの午後、ひっきりなしに電話が鳴り、「あいにくその日は満席でして」のお詫びが繰り返される。
「居酒屋ですから、本当はふらりと立ち寄っていただきたい。でも16席しかありませんし、時間制限もないのでいつお席が空くかもわからない。だから、ほとんどのお客さんは電話か、帰るときに次回の予約をしていかれます」
お断りすることも多いからこそ、電話では丁寧に応対するし、予約が取れた人は、「〇〇様御予約席です」と書いた経木の名札が迎えてくれる。席に着いた客は、注文の料理を自分で紙に書いて渡す。場合によっては、飲み物はセルフサービスだ。というのも、仕入れから仕込み、調理、接客すべて、西尾さんがひとりで切り盛りしているからだ。
「ここに店を持ったのは、10年前でした。開店初日にみえたのは、たった1組4人だけ。家賃払えるかな、と思ったんですが、いつの間にか予約でいっぱいになるようになったんです」
テレビでも何度か紹介されたというのに、西尾さんの態度も口調も控えめ。そんな姿勢と笑顔。それに「静岡おでん」(1串140円)や毎朝仕入れる「生しらす」(1皿626円)など個性的なメニューと、そのおいしさがあいまって人気なのだ。
「私の出身地である静岡のおでんは、器に盛ったおでん種に汁の上からだし粉をかけて食べるんです。これが、東京では珍しい、おいしいといわれて、冬だけではなく、一年を通して店の名物になりました」
「生しらす」は、鎌倉市の腰越漁港に水揚げがあれば毎日必ず自分で仕入れに行く。飲み物では「先斗割」が人気だ。
「先斗割は、京都の老舗昆布屋で買う、ぬめりのない昆布をたっぷり入れた焼酎のお湯割りです。この昆布を見つけ出したのは、うちの奥さんなんですよ」
※女性セブン2014年6月26日号