北朝鮮に拉致された日本人は本当に帰ってくるだろうか。これまでの経緯から「北は譲歩を小出しにする。大きな進展は望み薄では」という悲観論もある。出方は読みにくいが、私は「北は動く」とみる。それにはいくつか理由がある。
まず、北朝鮮はかつてなく追い詰められている。北の核実験を不快に思った中国は昨年5月、中国銀行にあった朝鮮貿易銀行の口座を凍結し、取引を停止した。朝鮮貿易銀行は北朝鮮の貿易決済を握っている。これで北は輸入や外貨入手が困難になった。
加えて、中国は今年1月から原油供給もストップした。北はカネと油で締めあげられ、青息吐息の状態なのだ。実力者、張成沢(チャンソンテク)の粛清で中国とのパイプも途切れてしまった。中国はあきれて韓国に急接近している。中国は北の崩壊と「韓国による朝鮮半島統一シナリオ」も織り込み始めたかのようだ。
北朝鮮の最終目的は、ずばりカネだ。今回の日朝合意文書はこんな書き出しで始まっている。「双方は日朝平壌宣言にのっとって、不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、国交正常化を実現するために真摯に協議を行った」
小泉訪朝時に結ばれた日朝平壌宣言のキモが何かといえば、国交正常化後の日本からの経済協力である。多くのマスコミは制裁の一部解除に目を奪われているが、実は北にとって真に重要なのは、数兆円ともいわれる経済協力資金が手に入るかどうかなのだ。それには拉致問題の解決が絶対条件になる。
安倍晋三政権は拉致問題を中途半端な形で解決できない。「まだ生存者がいるかもしれないのに見捨てた」といった批判が出れば、政権の命取りになってしまう。
金正恩(キムジョンウン)第一書記は安倍と奇妙な一蓮托生の関係にある。北が安倍を窮地に追い込めば、経済協力は夢物語になって自分が困る。安倍にそんな弱みはない。ゲームで優位に立っているのは安倍である。相手を納得させなければならないのは金正恩なのだ。
安倍は納得できなければ、解除した制裁措置を復活すればいい。北がカードを握っているように見えて、実は安倍が鍵を握っている。
北朝鮮は小泉訪朝で大失敗した。直接交渉したミスターXと外務省アジア大洋州局長が練り上げた「一時帰国」の事前シナリオが、安倍(当時、官房副長官)の大反対に遭って途中で狂い、結局、拉致被害者5人を永住帰国させてしまった。それなのに巨額の経済協力は実現せず、北が手にしたのは、わずか12万5000トンのコメにすぎない。
今回は「二度と同じ轍は踏めない」と考えているのではないか。
(文中敬称略)
文■長谷川幸洋:東京新聞・中日新聞論説副主幹。1953年生まれ。ジョンズ・ホプキンス大学大学院卒。政府の規制改革会議委員。近著に『2020年新聞は生き残れるか』(講談社)。
※週刊ポスト2014年7月25日・8月1日号