視聴率も好調なNHKの朝ドラ『花子とアン』で、仲間由紀恵(34才)演じる葉山蓮子のモデルとなったのは、歌人・柳原白蓮(1885~1967年)だ。この白蓮と皇后・美智子さまとの間には、ただならぬ関係があったという。
1958年(昭和33年)11月27日、美智子さまは皇室会議により、正式に皇太子妃に内定した。民間初のプリンセス誕生に国民は沸き、ミッチーブームが巻き起こる。しかし、そんな祝福ムードの国民とは裏腹に皇室内部、そしてその周辺では猛烈な反対運動が起こっていた。
約50年にわたって昭和天皇に仕えた入江相政(すけまさ)元侍従長が日々の仕事について綴った『入江相政日記』。1958年10月11日の日記には、こんなことが綴られている。
《東宮様(現在の天皇陛下)のご縁談について平民からはとは怪しからんといふやうなことで皇后さま(香淳皇后、享年97)が勢津君様(秩父宮妃勢津子さま、享年85)と喜久君様(高松宮妃喜久子さま、享年92)を招んでお訴へになった由》
しかも、この日記はご婚約発表のわずか1か月半ほど前。そんなギリギリの時期まで反対活動を続けていたのだ。
ご婚約が正式決定した後には、今度は常磐会(ときわかい)による反対が始まる。常磐会とは女子学習院のOG会で、明治以来、皇族妃、元皇族を中心にした組織で、皇室内における力は絶大なものがあった。
当時、その常磐会の会長を務め、皇室に大きな力を持っていたのが勢津子さまの母・松平信子さん(享年82)だった。
「お后は旧伯爵家以上の家庭から選ばなければなりません。一般のかたでは伝統習俗の多い皇室にはいるのは無理でしょう」
これが信子さんのお妃選びの考え方で、周囲にも言い続けてきた。しかし、美智子さまが妃殿下に決まり、常磐会会長として面目を潰された信子さんは、烈火のごとく怒り、あろうことか“婚約解消”へと動き始める。そんな信子さんの右腕として尽力したのが白蓮だったのだ。前述した『入江相政日記』(昭和33年12月22日付)には、こう綴られている。
《松平信子、宮崎白蓮が中心となって今度の御婚儀反対を叫び愛国団体を動かしたりした由》
白蓮と姻戚関係にあった白洲正子さん(享年88)にも白蓮から反対運動に加わるようにと連絡があった。正子さんは華族の出で、政財界との強いパイプを持つ白洲次郎を夫にもつことで、上級社会では強い影響力があった。正子さんは自伝でこう明かしている。
《ある夜勢こんで電話がかかって来た。
「あなた、今度のことどう思う?」
「今度のことってナァーニ?」
「美智子さんですよ。あんた、このままほっとくつもり?」》
もともとは華族だったが、「白蓮事件」によって自らその身分を捨て、平民となったにもかかわらず、平民プリンセスの誕生に「断固NO!」の姿勢を示した白蓮。白蓮に詳しい文芸評論家の尾形明子さんはこう言う。
「白蓮は身分制度、自分が伯爵家の出身であることのプライドの中に生涯を生きた人だと思います。それは宮崎龍介と結婚してからも柳原家の出であることを主張するため『柳原白蓮』を名乗り続けていたことでも明らかです。戦後、貴族制度の禁止にともない立場が弱くなった松平信子をはじめとする旧華族たちが、『白蓮事件』(夫・伊藤伝右衛門に白蓮が絶縁状を突きつけた件)を抜きにしても、文化人として有名で少なからず影響力があり、“大正天皇の従妹”という肩書を持つ白蓮を利用しようとし、彼女もそれに応えたわけなんです」
これこそが『花子とアン』では、描かれることのない白蓮が仕掛けた“知られざる闘い”といえよう。
※女性セブン2014年7月31日・8月7日号