庶民や若者の言葉の乱れを嘆く知識人は多いが、そうした「インテリ」ほど、得意げに難しい言葉を誤用している。これは、カビの生えた豆腐をそうとは知らず、通人ぶって「おつな味でげすな」と得意気な男の滑稽談を描いた落語『酸豆腐』のようではないか。現在のこうした事例を、評論家の呉智英氏が解説する。
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私が持ちネタのようにしつこく糾弾している似非インテリの誤用が「すべからく」である。漢字で書けば「須く」、意味は「(ぜひ)~せよ」である。英語に翻訳するならoughtかshouldになる。「すべからず」が「禁止」、「すべからく」が「義務」である。
この言葉は、本来、漢文訓読の中で使われたため、いかにも教養ありげに見えるので、酸豆腐の似非インテリが得意気に誤用する。
産経新聞の校閲部長で後に論説委員にまで出世した塩原経央という男がいる。塩原は学生時代に詩集も出していた(自費出版で)文学通で、言葉には一家言ある。文語の美しさを紙面で強調し「言葉はすべからくそういうものだ」と酸豆腐を旨そうに食って見せた。同紙在職中から、美しい日本語についての講演もしばしば行なった。何と、日本語についての著作まである。
水村美苗の『日本語が亡びるとき』は、何かの文学賞を受賞したはずだが、イグ・ノーベル賞だったかもしれない。この本の中に、こんな一節がある。
「カンボジアのクメール・ルージュにいたっては読書人をすべからく虐殺した」
水村美苗は、読書人虐殺を義務だと思っているらしい。確かに、ある意味では正論のような気がする。
日本語を亡ぼすようなこの誤用には、さすがに批判者も多く、支那文学者の高島俊男、国語学者の国広哲弥も、苦言を呈している。また、東欧文学者の工藤幸雄も「すべからく」の誤用をずいぶん前から批判している。
亜インテリの中には、言葉の誤用に正反対の反応をする人もいる。「すべからく」を「すべて」の意味に使っても通じるから、いいじゃないか、と。否、通じない。意味不明である。
明治・大正期の文人、富岡鉄斎は、今も高く評価されている。その詩の一節に、次のようにある。
「君、志あらば、須く明朝来るべし」
君にその気があるのなら、ぜひ明朝来てくれよ、である。「すべて明朝来てくれよ」では日本語ではない。明朝に「すべて」と「部分」の区別があるはずもない。今、日本語と言ったが、現代支那語でも同じである。「須」(シュ)は、義務・命令の意味である。
亜インテリが庶民や若者の日本語の乱れを喋々し、似非インテリが得意気に難しい言葉を誤用する。日本語の乱れは知識人世界の乱れの象徴である。
※SAPIO2014年8月号