日本は高度成長に沸いていたあの頃、巨人は本当に強かった。川上哲治監督の下、長嶋茂雄・王貞治(ON)という不世出のスター2人を中心に、球史に輝くV9は、400勝投手“カネやん”こと金田正一氏(80)が巨人に移籍した1965年から始まった。金田氏に、当時の思い出を語ってもらった。
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V9の発端は金田の移籍。これに異論を唱える者はいないだろう。
巷ではもっぱら、この移籍はワシが巨人に行きたかったから実現したといわれとる。確かにそれも事実だ。(ワシがその前に所属していた)国鉄(スワローズ)の試合はいつも閑古鳥が鳴いていたから、満員の客には憧れたし、ONをバックに投げてみたい夢があったからな。しかしそれ以上に、川上さんがワシを欲しがっていたというのが真相だ。
1964年、ワシは球団の身売りが決まっていた国鉄に嫌気が差し、「10年選手制度」(※注)を使った移籍を考えていた。この制度では、移籍交渉は前シーズンの順位によるウェーバー方式で行なわれる。この年は阪神が優勝し、大洋、巨人、広島、国鉄、中日の順だったから、最初の交渉相手は中日だった。品川プリンスホテルでの交渉で、中日は移籍金1億円と、引退後の監督就任という破格の条件を出してきた。
しかし今だからいうが、実はこの時点ですでに巨人との話はできていたんだ。川上さんが一番恐れていたのが、ワシが中日へ行くことだった。巨人キラーの金田(当時対巨人戦通算65勝)が生まれ故郷のチームであり、かつ親会社同士が苛烈な新聞販売競争をしている中日に入る。そうなれば星計算が少なくとも8勝分は違ってきて、巨人も川上さんもジ・エンドだったからね。
【※注】現在のFA制度の前身ともいえるもので、同一球団で10年以上在籍したA級選手には、残留してボーナスを得るか、自由に移籍する権利が与えられていた。3年後にはB級選手として移籍権が再取得できる。金田はB級選手の資格があった。
※週刊ポスト2014年8月8日号