今では巨人の「V9」を築いたとして語られる川上哲治監督だが、就任した1961年こそ6年ぶりの日本一を達成したものの、翌年は球団初のBクラス(4位)に転落。1968年に優勝するが、1964年は3位に終わった。1950年代の黄金期との落差を埋めるべく、国鉄スワローズの大エースだった“カネやん”こと金田正一氏(80)が巨人に移籍した。優勝請負人として巨人に乗り込んだが、巨人では驚くことばかりだったと金田氏が当時の思い出を語る。
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後輩ではあるが、ワシはON(王貞治・長嶋茂雄)をライバルと認め、全力で対戦していた。実は国鉄時代、ワシはОNに一度もぶつけたことはない。当時は危険球による退場なんてルールもなく、好打者には死球覚悟で内角を突くのが常識だったが、ワシはОNとは常に真っ向勝負していたからね。そのためかなり打たれてしまったが(※注)、打たせてやったようなものだ。
※注:対金田の通算成績は、長嶋は.313、18本塁打、王は.283、13本塁打。
だがいざ同じチームになって最初のキャンプに参加した時、長嶋の体があまりにも硬くて驚いた。当時あいつは20代後半だったが、このままだとコイツの野球人生は終わるだろうと思ったほどだ。それくらい柔軟性がなく、体からにじみ出てくる活気というものがなかった。
ワシは汗をびっしょりかくくらい準備運動をやり、アクロバティックな体勢で柔軟体操もやる。シゲはそれを見て、「カネさん、それは生まれつきなんでしょ」なんていうから笑ったよ。
だからワシは「シゲ、お前は何年かけて体をそこまで硬くしたんだ、ワシは赤ん坊の頃から体の手入れをして柔軟さを維持してきた」といってやった。すると長嶋は、「やればできるんですか?」といってきたんだ。この言葉は今でも忘れられないねェ。長嶋が初めてワシに使った敬語だったしな(笑い)。
長嶋がすごいのは何事もやり始めたら半端じゃないこと。とにかく一生懸命やる。その勢いは凄まじかったよ。ワシも、鍛えるだけじゃダメだ、鍛えたあとに10倍体のケアをしなけりゃいかん、と教えてやった。
ワシは当時から専属のトレーナーを連れていたが、長嶋はこれも取り入れようとして、「マッサージ貸してください」といってきて連れて行った。そのトレーナーは二度と戻ってこなかった。
こうして長嶋はこの年のキャンプ中に、体を完全に作り直した。あの「やればできるんですか?」がV9の始まりじゃった。
※週刊ポスト2014年8月8日号