【書評】『旅のスケッチ トーベ・ヤンソン初期短篇集』/トーベ・ヤンソン・著 冨原眞弓・訳/筑摩書房/1600円+税
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
小さい頃、「ムーミン」が少し怖かった。ニョロニョロという、群れをなして蠢く口をきかない生き物も怖かった。それもそのはず、ムーミンは、「ガルム」という政治雑誌の風刺画に始まる。ヤンソンのスピリッツは元々、優しいおとぎ話のそれではない。
今年は作者の生誕百周年。『旅のスケッチ』は、戦前のパリ、ドレスデン、ヘルシンキ、ヴェローナ、カプリなどを舞台にした八作を収める短篇集で、挿絵もたっぷり入っている。
執筆時期は第二次大戦前から戦中にかけて、フィンランドが主にソ連、ドイツの両大国からの脅威に晒されていた頃だ。ムーミンの原型とされる水彩画「黒いムーミン・トロール」(一九三四年)にもその影が色濃く映しだされているが、本書収録のデビュー作「大通り」が書かれたのも、この絵と同じ年なのである。
主人公の初老の画家はイタリアン大通りのビストロで無為に過ごすことを粋としている。表通りだけをパリだという彼は、あるとき初々しいカップルを見かけて興味をもち、尾行し始める。ここで面白いのは、若い男を画家が「俺とそっくりだな」という点だ。
たぶん、客観的には全然似ていないのだろう。ナボコフの『絶望』や磯崎憲一郎の『赤の他人の瓜二つ』等々、人はなぜか年をとると、自分そっくりな他人を見つけてしまうらしい。「自分そっくり」と言いだしたら老いてきた証拠。作品は長らく表舞台であったパリの老いをも仄めかしている。
「カプリはもういや」には、もっとはっきりとナチスの影響が。ある夫婦がイタリアの島に新婚旅行にくると、ホテルは「ユーゲント・シュティール風」に装飾され、「純粋なアーリア人」の歌手が余興に来ると言う。
一方、「ヴァイオリン」という篇では、凡才ながら名器を所有してしまったバイオリン弾きが、パリ祭の夜にある決心をし、愛する女との人生に踏み出す。ジプシー・ジャズが花開いた一九三〇年代のパリ左岸のリズムと夜の空気を伝える一遍。愛しくて怖い人生のスケッチ集だ。
※週刊ポスト2014年8月8日号