巨人にV9をもたらした川上哲治監督は、「ドン」と呼ばれたほどの絶対的な権力で選手を管理した。その川上氏から疎まれ放逐された選手がいた。広岡達朗氏(82)である。
きっかけはV9の始まる前年、1964年8月6日の国鉄戦だった。2点を先制され、相手投手・金田の好投に手も足も出なかった巨人は、7回表、ようやく1死三塁の好機を掴む。打者は5番・広岡。しかしその3球目、三塁走者・長嶋がホームスチールでアウトになる。
打撃を期待されなかった広岡氏のショックは大きかった。三振に倒れた広岡氏は激怒してバットを叩きつけると、ベンチを素通りして帰宅してしまった。広岡氏があの事件をついに自分の口で語った。
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1961年に監督に就任した時、川上さんは私に「現役時代はいい加減なことをしたが、すべて水に流して協力してくれ」と頭を下げてきた。私はもちろん快諾しましたよ。その後はコーチ兼任として、V9の初期を支えたつもりです。しかしこの時ばかりは腹が立った。
私は信用されていなかったんだと確信した。そこから川上監督との関係が悪化していったんです。
それで、この年のオフには私を中日へトレードする話が出た。私は「トレードなら引退します」と正力亨オーナーに直訴し、結局この時は正力松太郎さん(亨氏の父。巨人の初代オーナー)が取り持ってくれて残留することになった。しかし川上さんは気に入らなかったのでしょう。その後は露骨に出番を減らされました。優勝した翌1965年はまだ良かったが、1966年には11試合しか出られず、結局この年を最後に巨人を辞めました。
川上さんによる「広岡排除」は徹底していましたよ。引退後、私が評論家として巨人を訪れると取材拒否された。米国・ベロビーチキャンプに取材に行くと球団に「広岡を入れるな」と通達する。ならば個人で行ってやれとスタンドで観戦していると、練習をやめてしまう。海外まで来てこの仕打ちを受けた時には涙が出ましたね。
※週刊ポスト2014年8月15・22日号