読売巨人軍が9年連続してプロ野球日本シリーズを制覇した1965年から1973年までは、V9時代として今も語り継がれている。俊足巧打の1番打者としてV9を支え、6回も盗塁王を獲得した柴田勲氏が、当時のタイトル獲得の秘話を語った。
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1番の僕は何でもいいから塁に出て足で相手を攪乱し、2番の土井(正三)は送りバント、エンドラン、空振りで盗塁をアシストする。柴田が出ていない時は、何とか土井が出塁してОN(王貞治、長嶋茂雄)につなげる……。今でこそ当たり前に聞こえますが、当時はこの「ドジャース戦法」は先進的なものでした。
王さん、長嶋さんに対する指示はなく、いつもフリー。ご自由にどうぞという感じでした。反対に1、2番にはものすごく制約がありましたね。
僕はノーストライク・2ボールで「待て」、ノーストライク・3ボールでも「待て」。いつ打たせてくれるんだと思っていましたよ。ボールが先行しているうちは必ず「待て」。とにかく、四球でもエラーでも、死球でも何でもいいから塁に出ろといわれていた。自由には打たせてもらえませんでした。
盗塁にしても、99.9%はサインで走っていました。ノーサインで走ることはありませんでしたね。70盗塁を記録した1967年だって、自分の意思で走ったことは一度もありません。
理由は僕が走って一塁が空くと王さんが歩かされるから。王さんが打席にいる時は「走るな」です。ノーサインで走っていいのは、6回以降で大量リードしている時ぐらい。「自由に走っていい」というサインが年間に2回出たとすれば、「走るな」は15回以上は出ていましたね。
ノーサインで走らせてくれれば、もっと盗塁できていた? そうかもしれないけど、当時、特に巨人の選手は個人記録をそれほど気にしていませんでした。川上哲治監督も個人の記録にこだわることを許しませんでしたから。自分が現役の時は自分勝手にやっていたのにね(笑い)。
※週刊ポスト2014年8月29日号