74才にして輝きを放つ五月みどりさんがこの度『五月みどりのヒ・ミ・ツ』(主婦の友社・1512円)を上梓した。同書は、健やかな体をキープするための食事のこだわりや似合う装いのための創意工夫など、いくつになっても輝くためのヒントが満載。
東京の下町で精肉店を営む両親の元に、8人きょうだいの長女として生まれた五月さんは1958年、19才の時に『お座敷ロック』で歌手デビューした。チャーミングなルックスと「ちりめんビブラート」と称された細かなビブラートを利かす歌唱力が評価され、1962年から3回連続でNHK紅白歌合戦に出場。
だが、人気絶頂の1965年に25才の若さで芸能界休業を決意する。芸能プロダクションの社長・西川幸男氏(故人)との結婚が理由だった。
「もちろん周囲からは反対されましたよ。仕事もうまくいっていましたし、私は当時25才で彼は15才も年上でしたからね。でも、当時の私は親から独立したい気持ちが強かったのかもしれません。実家住まいで、父が異性関係にすごく厳しくて、それまで恋愛らしい恋愛を経験したことがありませんでしたから。
そんな時に、ふたりきりで食事もしたこともない西川さんから突然、“結婚したい”と言われて。驚いて、“考えさせてください”って言ったんですけど、それからは不思議と結婚のことしか考えられなくなってしまったんです」
1男1女の子宝にも恵まれたが、五月さんを悩ませたのは西川氏の“力による支配”だった。
「夫婦になると、恋人同士だった時より、夫の考えを強いられてばかり。彼の不満が募ると、手が出ることもたびたびありました。我慢してきたのですが、だんだん耐えられなくなってしまったんです」
離婚を決意した五月さんだったが、2人の子供の親権を巡って対立。そして彼女は苦渋の決断を下した。当時4才の長女、3才の長男の親権を西川氏に譲る形で、離婚を成立させたのだ。1971年、五月さんが31才のことだった。
「子供たちと別れるのは身を切られるよりつらいことでした。でも、裁判を続けて、夫婦で悪口を言い合う姿を子供たちに見せたくなかったし、きょうだいを引き離すこともしたくなかったんです。
その頃の私は、街で子供服を見かけては涙ぐんじゃうし、2人の姿をひと目見ようと家や学校に様子を見に行ったこともありました。そうしているうちに娘と会えたことがあって、あまりの嬉しさに声をかけてしまったんですが、するとパーッと一目散に駆け出してしまって…。
その時の娘の背中を見て、いつまでも過去ばかり引きずってはいけないと思えたんです。離婚を機に芸能界には復帰していたのですが、これからは精一杯生きて、もっと芸の幅を広げて、求められれば何にでも挑戦していこうと心に決めました」
五月さんの最大の挑戦はフルヌードになったことだった。
「いつか子供と再会した時に、恥ずかしくない自分でいようと、かたくなに守ってきた部分を脱ぎ捨てたかったんですね。以来、それまでお断りしていたお仕事も積極的に受けるようになりました」
ポルノ映画にも出演。元アイドル歌手の大胆な演技は大きな話題となった。
※女性セブン2014年9月11日号