【書評】『「肌色」の憂鬱 近代日本の人種体験』眞嶋亜有著/中央公論新社/2300円+税
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)
手足が長くて、かっこいい人のことを、われわれはしばしばこうもてはやす。あの人は、日本人ばなれしている、と。この言いまわしがなりたつのは、自民族の容姿にたいする評価が、低いからである。われわれが、なんとなく日本人はぶさいくだと感じているからに、ほかならない。
彼がイケメンなのもとうぜんだ、だってハーフなんだから。とまあ、そんな物言いも、われわれはしばしば耳にする。これも、日本男児のルックスにたいする期待が低いから、なりたつ言いっぷりにちがいない。
テレビの報道番組は、先進国首脳会議、サミットの様をよくつたえる。そこで見かける日本代表の姿で、せつなく感じたことのある人も、多かろう。欧米の首脳らを前にすると見おとりがする、貧相だな、と。この本は、そういう劣等感に、日本人がどうむきあってきたのかを、おいかける。明治以後にくりひろげられた屈辱の数々をたどっていく、民族史の読み物である。
近代の日本は、西洋化の途をつきすすんだ。国家や社会のしくみを、西洋に近づける。衣食住をはじめとする暮らしぶりも、あちらによりそわせる。そのことに、国をあげながらつとめてきた。
しかし、肌の色がちがうことは、かえられない。体格差も、うめきれはしなかった。そのへだたりは、制度設計などの西洋化がすすめばすすむほど、はっきりする。そして、西洋化をめざした指導者や知識人らを、さいなんだ。
内村鑑三は、この問題をどうのりこえようとしたのか。夏目漱石は、遠藤周作は……。そこを、著者は彼らの精神史へわけいり、きりきざむようにえぐっていく。その過程で、近代日本のエリートたちがこうむった心の傷が、うきぼりにされていく。
近世以前の日本は、中華文明の周辺に位置していた。ながらく、中国にはあこがれつづけてきたが、しかし容姿についての劣等感はいだいていない。近代以後ならではの暗部をえぐった著作である。
※週刊ポスト2014年9月12日号