朝日新聞社長による謝罪会見へつながった「吉田調書」問題。先鞭をつけたのは、週刊ポスト6月20日号(6月9日発売)が掲載したジャーナリスト・門田隆将氏によるレポート〈朝日新聞「吉田調書」スクープは従軍慰安婦虚報と同じだ〉だった。門田氏は、福島第一原発所長だった吉田昌郎氏を生前、唯一インタビューしたジャーナリストである。朝日新聞が書いた「所長命令に違反 原発撤退」はあり得ないと主張した門田氏に対し、朝日はどう答えていたか。改めて、全文を紹介する。
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(門田隆将 朝日新聞「吉田調書」報道の罪 全文掲載【2/6】のつづき)
具体的にその朝日の手法を見てみよう。今回、朝日の記事で「9割の人間が逃げた」とされる「2011年3月15日朝」というのは、拙著『死の淵を見た男』の中でも、メインとなる凄まじい場面である。
震災から5日目を迎えたその2011年3月15日朝は、日本の歴史上、“最大の危機”だったといっても過言ではない。その時、免震構造だけでなく、放射能の汚染をできるだけシャットアウトできる機能も備えた免震重要棟には、700名近い所員や協力企業の人たちがいた。
一体、なぜ700名近い人がこの時点でも免震重要棟にいたのか。そのことを理解しなければ朝日新聞の巧妙な誘導の手法に気づかないだろう。
震災から5日も経ったこの日の朝、700名近い職員や協力企業の人たちが免震重要棟にいたのは、そこが福島第一原発の中で最も“安全”だったからである。
事態が刻々と悪化していく中で、免震重要棟に避難していた職員や協力企業の面々は、「外部への脱出」の機会を失っていく。時間が経つごとに事態が悪化し、放射線量が増加し、「汚染が広がっていった」からだ。
免震重要棟にいた700名近い職員には、総務、人事、広報など、事故に対応する「現場の人間」ではない“非戦闘員”も数多く、女性社員も少なくなかった。彼らをどう脱出させるか――吉田所長はそのことに頭を悩ませた。
700名近い人間がとらなければならない食事の量は膨大だ。そして、水も流れない中での排泄物の処理……等々、免震重要棟がどんな悲惨な状態であったかは、誰しも容易に想像がつくだろう。
事故対応ではない女性職員たちを含む「非戦闘員」たちを一刻も早くここから退避させたい。トップである吉田氏はそう思いながら、広がる汚染の中で絶望的な闘いを余儀なくされていた。実際に14日夜には、具体的に彼らの福島第二原発への退避が話し合われ、準備が進められていた。
震災の翌12日には1号機が水素爆発し、14日にも3号機が爆発。その間も、人々を弄ぶかのように各原子炉の水位計や圧力計が異常な数値を示したり、また放射線量も上がったり、下がったりを繰り返した。
外部への脱出の機会が失われていく中、吉田所長の指示の下、現場の不眠不休の闘いが継続された。プラントエンジニアたちは汚染された原子炉建屋に突入を繰り返し、またほかの所員たちは原子炉への海水注入に挑んだ。
そして、2号機の状態が悪化し、3月15日朝、最悪の事態を迎えることになるのである。(つづく)
◆門田隆将(かどた・りゅうしょう)/1958(昭和33)年、高知県生まれ。『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(角川文庫)で第19回山本七平賞受賞。近著に『太平洋戦争 最後の証言』(第一部~第三部・小学館)、『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)、『狼の牙を折れ 史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部』(小学館)、『記者たちは海へ向かった 津波と放射能と福島民友新聞』(角川書店)がある。