今年の夏、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者と患者団体を支援する募金イベント「アイスバケツチャレンジ」が著名人らの間で流行った。タレントや企業経営者らが、バケツに入った氷水を頭からかぶる動画を見た人も多いだろう。おかげで日本ALS協会にも寄付が集まり、この病気の周知も進んだという。「だったら今こそ、患者さんたちのためにこの病気に取り組んできた技術者のことも知って欲しい」と、フリーライターの神田憲行氏は訴える。
* * *
頭にベルトを巻いて、最初の12秒間は必死でなにも考えないようにした。そのあとの12秒、奇数を頭の中で数える。ふだんそんなものを数えたことがないので「31」ぐらいから怪しくなって逆から数えた。さらにそのあとの12秒間、数えた数字を頭の中から追い出して、またひたすら「無」の境地にひたる。するとパソコンのモニターに映し出された波形が綺麗な波を描き、「YES」の文字が現れた。
「おおう。これは綺麗な波ですね。初めて試してこんなに綺麗に出る人は滅多にいませんよ」
モニターを見つめていた東洋大学工業技術研究所客員研究員の小澤邦昭さん(67歳)が笑いながら驚いた声を挙げた。
一切パソコンに触れず声も出さず、前頭葉に流れる血流の量だけを測定して「YES」「NO」を判定する。血流量を増やすには奇数を数えたり、人によっては歌を頭の中で歌う人もいるそうだ。原理的には銀行のATMなどに置いてある静脈認証と同じという。
装置の名前は「心語り」という。小澤さんがALS患者さんのために研究し、2005年にエクセル・オブ・メカトロニクス(株)から製品化した。そして今年、独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の助成金を受けられることが決まった。
「来年、10年ぶりに改良版『心語り』を出す計画がエクセルさんにあり、その技術支援をしていきます」
と、小澤さんは声を弾ませる。
小澤さんは技術者としての半生を、ALS患者のために捧げてきた。きっかけは1992年、日立製作所に勤務していたときに世話になった先輩がこの病に倒れたことだった。
「ALSについてなんの知識も無かったので、病室にお見舞いに行ったとき、ベッドに横たわった先輩からなんの反応もなく戸惑いました。あんな親切な先輩だったのに、ショックでした」
ALSは身体を動かすための神経細胞などが徐々に壊れていき、筋肉が縮んで動かなくなる病気である。今のところ原因不明で、有効な治療法もほとんどない。患者さんの中には四肢の不自由に加え、呼吸障害も起こし、ノドに人工呼吸器を装着する人もいる。人工呼吸器により声帯を通る空気が遮断されるために、ほとんどの患者さんは「声」を失う。頭の中はしっかりしているのに、外部とのコミュケーション手段が絶たれてしまう。その苦しさ、辛さはいかばかりだろうか。
それで小澤さんは指先のわずかな動きだけでパソコンに文字が入力できる意志伝達装置「伝の心」を1997年に開発した。「伝の心」はモニターに50音表が表示され、ユーザーは指1本でそれを追っていくだけで、メールを出したり、長い文章を書くこともできる。私は10年前、「伝の心」ユーザーである筋ジストロフィー患者の女性を取材したことがある。彼女は11年間寝たきりの生活を送っていたが、右手の指だけでパソコンを立ち上げ、メールソフトを起動し、両親や友人にメールを書いたり、ワープロソフトで小説の執筆を楽しんでいた。
「『伝の心』があるから、私は寂しくない」
IT技術の普及と技術者の情熱で、彼女は身体は不自由だが自分なりに充実した精神生活を送っていた。
しかし「伝の心」はわずかでも身体が動かせる患者さんしか使えない。全く自分の筋肉を動かせられなくなった患者さんのために、さらになにか考えられないか。それで開発したのが、「心語り」である。