「扇の要」として、V9巨人を当初から支え続けた正捕手が森昌彦(現・森祇晶)氏である。9連覇の期間、激務のポジションを勤め上げた“グラウンド上の監督”は、あの栄光の時代をマスク越しにどう見ていたのか。
* * *
よくV9時代の巨人は打撃のチームといわれるが、そんなことはありません。川上さんがチームを引き受けた時(1961年)、巨人は攻撃力のないチームでした。その中で勝っていくにはどうすればよいかを考え、川上さんは守りと走塁に重点を置く方針を打ち出したのです。
これが選手の間に浸透したのが、1961年3月に行なわれたベロビーチ・キャンプでした。この時に川上さんの掲げる「個人ではなくチームプレー」を理解した者だけが、その後も生き残ったのだと思います。
僕もベロビーチでは毎日、川上さんの部屋に呼ばれ、「捕手のサインでみんなが動く野球」をとことん叩き込まれた。部屋では、日本から持ち込んだ電気釜で炊いたご飯を、新聞紙で作った皿によそい、海苔の佃煮をおかずにして皆で食べながら話をしていたのを思い出します。
僕は川上さんから守備のすべてを任されていました。送ってくるか走ってくるか、相手の攻撃を読んでシフトを変えるサインは、ベンチからではなく、すべて僕が出していたんです。
僕がピッチャーにサインを送ると、それを土井(正三)や黒江(透修)が見て外野手に伝達。それによってチーム全員が守備位置を変えます。その打者の打球がどこに飛びやすいかを頭に叩き込んでいるので、それに応じて各自が第一歩の準備をする。
もちろん打者の傾向を見抜くのは僕の仕事です。当時はスコアラーもビデオもない時代でしたから、対戦打者のクセや欠点などを情報収集したり、相手捕手と話をする中でヒントを得たりして、手帳に書いて覚えました。
その点、当時南海の野村(克也)さんの影響は大きかったですね。野村さんと野球の話をしていると、いつも時間が足りなくなりました。
※週刊ポスト2014年10月10日