【書評】『よい旅を』/ウィレム・ユーケス/新潮社/1600円+税
【評者】川本三郎(評論家)
インドネシアは長くオランダの植民地だった(オランダ領東インド)。第二次世界大戦中、そのインドネシアを日本軍が侵攻し、占領した。多くのオランダ人は捕虜となった。一九一六年生まれの著者は一九四二年から戦争が終わる四五年まで日本軍の捕虜となった。現在、九十八歳になる著者が七十年前の捕虜の体験を回想する。
「わたしが日本軍の囚人として経験した多くの奇妙で興味深い体験は、やはり記録して残しておく価値があると思ったからだ」
著者は幸いに斬首や残酷な拷問を見たりせずにすんだ。ひとつには、著者が戦前、貿易会社の人間として神戸で暮したことがあり(日本人女性の恋人がいた)、日本語を話せたことが大きかった。そのために日本軍のある中尉の通訳になった。中尉が「最も品行方正でまっとうな将校だった」ことも幸いした。
それでもいくつかの拘置所や刑務所を転々としてゆくうちに、他の捕虜と同じように恐怖にさらされてゆく。外部の情報がまったく入らず、行き先が読めない精神的不安。肉体的な消耗。いつ殺されるか分からないという恐怖。
房のなかに何人も入れられる。なかに明日処刑になる者がいる。当然、食事が喉を通らない。それを見ている自分も粗末な食事をなかなか食べられない。二度目になると、死刑囚が手をつけない食事を他の人間が食べても変に思わない。三度目には自分も手がつけられない死刑囚の食事を皆と分け合って食べるようになる。
「生きのびるためにはそれほど早く鈍感になるものなのだ」
死刑囚の遺体を埋める穴掘りもやらされる。何人もの遺体に接しているうちにこれも次第に神経が麻痺してくる。
著者は極限状況を淡々と書き綴っている。感情を抑えている。戦前の神戸での暮しがよかったためか、日本人に悪感情を持っていない。日本人個人と軍隊のなかの日本人とを区別して考えている。
戦争が終わる、安堵するのもつかのま。こんどはインドネシア人がかつての支配者オランダ人に攻撃をしかける。なんとか無事に故郷に帰ると、国はナチスドイツに占領されていたため荒廃しきっている。
まさに波乱万丈。九十八歳まで生きているのは奇跡だと著者はいう。つらい過去を思い出すのは勇気がいっただろう。
※SAPIO2014年11月号