読売巨人軍が9年連続日本一という黄金時代を築いたとき、大きな課題が、王貞治、長嶋茂雄の次に打席に立つ5番打者を固定することだった。川上哲治監督は1968年に入団4年目の末次利光氏に白羽の矢を立てた。
末次氏は5番・ライトのポジションに定着。1971年には初の3割超え(.311)を果たしてV7に貢献し、同年の日本シリーズMVPにも輝いて「史上最強の5番打者」の称号を得る。末次氏は左投手に強く、特に阪神の江夏豊を得意とすることで知られた。当時の甲子園の雰囲気を末次氏がふり返る。
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僕が左投手に強かったのは、利き目が右だったこともあると思っています。ややクローズ気味にスタンスをとって、球の来る軌道と平行になるように立つと、左投手の球がよく見えるんです。江夏にはよく打たせてもらいました。
阪神戦でよく打ったので、関西の宿舎にはしばしば阪神ファンと思われる人物から電話がかかってきましたね。僕が出ると相手は最初普通にしゃべっていて、途中で突然「どアホが!」といってガチャンと切る。よっぽど頭に来ていたんでしょう(笑い)。
それに僕は外野でしょう? 甲子園でライトを守っているとスタンドからいろんな物が飛んでくるんですよ。石や牛乳 なんかが多かったけど、一升瓶が投げ入れられることもありましたね。
あるとき、危ないからヘルメットをかぶって守りにつくようにしたんです。それでわかったんですが、投げるほうも考えているんですね。僕がヘルメットをかぶって出てきたと見るや、石がすぐ近くにまで飛んでくるようになった。守備位置を前にするとベンチからは下がれといわれるし、ヘルメットでの守備はすぐやめました。
もうひとつ嫌だったのは、大洋の本拠地だった川崎球場。右中間の膨らみがなく、ライトスタンドが近いんです。こっちはモノじゃなくて強烈なヤジが飛ぶ。
「スエツグゥー! おまえ調子に乗るなよー!」とか、ワンカップを手にした大洋ファンが叫んでくる。試合では毎回ケンカですよ。まァ、しまいには顔を合わせすぎて仲良くなりましたけどね(笑い)。おおらかないい時代でした。
※週刊ポスト2014年10月24日号