読売巨人軍が9年連続日本一、V9を達成した年は、リーグ優勝のゆくえが1973年10月22日の阪神との最終戦までもつれた。この日、阪神のマウンドには22勝の上田二朗。その上田との相性の良さを買われた巨人・左の代打要員、萩原康弘氏は1番・レフトでスタメン出場した。優勝を決めたというのに、球場で余韻を楽しむ余裕は全くなかったと、萩原氏がその日を振り返る。
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この試合で優勝が決まったんですが、実は胴上げはしていないんですよ。ゲームが一方的になった影響で、試合中にもかかわらず、阪神ファンが怒って瓶や缶をグラウンドに投げ入れてきた。センターの柴田(勲)さんはヘルメットをかぶって守りについていたし、審判が「瓶や缶に邪魔されてフライを取れなかった場合は認定アウトにする」と警告するほどの荒れた試合でした。
僕は途中交代したから大丈夫でしたが、ゲームセットと同時にナインは一目散にベンチに逃げ込んできた。足の速い柴田さんも走って戻ってきたが、その前にはすでに50人ほど、なだれ込んできたファンが走っていたんだからね。王(貞治)さんは殴られるわ、国松(彰)さんはメガネを取られるわ、本当に散々でした。
僕らベンチの選手は応援しながら、自分の荷物だけは通路にまとめておいて、すぐに移動のバスに行けるようにしていました。バスに乗り込んでも阪神ファンが取り囲んで叩いたり、投石したりで、なかなか出発できませんでした。
そんな状況だったので、甲子園のグラウンドでは胴上げはできなかった。宿舎でやろうとしたんですが、こちらは天井が低くてできなかった(笑い)。V9の年は日本一の胴上げだけでした。いろんな意味で、思い出深いシーズンでしたね。
※週刊ポスト2014年11月7日号