皇太子時代を含め、戦前は北海道や沖縄、台湾・南樺太まで行啓・行幸した昭和天皇。しかし、戦後の全国巡幸はそれまでと全く違う意味を持っていた。
国家元首の比較研究を手がける西川秀和氏(大阪大学非常勤講師)が、9月に公表された『昭和天皇実録』では見ることのできない、当時の写真を交えて解説する。
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戦後の全国巡幸は単なる視察に終わらなかった。昭和天皇は訪問する先々で行政の長や土地の名士より、名もなき住民との交流を重んじられた。
開墾場や漁港、炭鉱を訪れて農民、漁民や労働者を心から労い、訪れた病院や母子寮では引揚者や病者、戦争で親を亡くした子供たちを激励した。敗戦後の占領という未曽有の逆境において、国の復興に尽力する無名の人々に深い感謝の意を表明され続けた。
その実相を伝える当時の写真を吟味すると、「人間天皇」の御姿が強く印象に残る。
最も目を引くのは「笑顔」だ。かつて現人神とされ、神が笑う姿など想像できなかったが、巡幸中は実に多くの場面で相好を崩しておられる。戦前は報道陣すら20m以上離れて撮影したが、戦後はそうした禁令は全くなくなった。
福岡巡幸中、老婆がそれと知らず昭和天皇と並んで歩く写真がある。
戦前は「御車が60mの距離に近づいたら最敬礼を行なう」などの敬礼法があり、天皇陛下と並んで歩くなど不敬罪に問われかねなかった。まさに世の変化を映す象徴的な一枚である。
群衆の中に占領軍兵士の姿が写っているものもある。戦後の混乱期、群衆にテロリストが紛れていても不思議ではなかったが、昭和天皇は国民により近づくため、最小限の警備で巡幸を続けられた。
そうした事実から窺えるのは、昭和天皇の巡幸にかける強いご意思である。
全国津々浦々に赴いて直に国民を激励し、ひとりひとりの奮闘に光をあて、その場面が報道されることを通じて全国民が復興への思いを強くする戦前の価値観が崩壊する中で、国民統合という日本にとって極めて重要な政治的目的を、巡幸という非政治的な手段で達成された。
これは、政治的実権を取り上げられながらも国家元首として責任を果たそうという明確な意思の表われである。そのご意思が全行程3万3000km、総日数165日に及ぶ全国巡幸を実現させたのだ。
※SAPIO2014年11月号