雅子さまが11年ぶりに宮中晩餐会に出席されたその2日後となる10月31日、宮内庁はかつて警視総監や宮内庁長官を務めた鎌倉節氏(かまくら・さだめ氏/享年84)が10月25日に亡くなっていたことを明らかにした。
2003年12月、帯状疱疹で宮内庁病院に入院されて以来、10年以上の長きにわたり、療養生活を送られている雅子さま。雅子さまが倒れられて半年後の2004年5月、皇太子さまは、「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」という、いわゆる“人格否定発言”をなさる。当時、この“人格否定”をしたひとりとして名前が上がったのが鎌倉氏だった。
鎌倉氏は警視総監を務めた後、1994年4月から宮内庁次長として入庁。1996年1月から2001年4月までは同庁長官を務めた人物だ。
「鎌倉さんは強い皇室崇拝の念を持っていました。そのため長官になると“国体護持”を掲げ、皇室を絶やさないためにと、当時、子供がいなかった皇太子ご夫妻のために男児がお生まれになりやすい環境を作るという方針を打ち出し、万が一、男児誕生が叶わなかった際に備えて、皇室典範改正の検討などの新たな体制作りを始めました」(当時を知る皇室記者)
皇太子ご夫妻になかなかお世継ぎが誕生しないという状況もあってか、長官となった鎌倉氏は問題点を見つめ直し、豪腕を振るった。
皇太子ご夫妻の公務旅行が多いことが、お世継ぎ誕生を停滞させていると懸念した鎌倉氏は、「皇太子ご夫妻がなすべきことは“お世継ぎ”づくり。そのために(1995年1月の)中東訪問を区切りとして、政治問題に巻き込まれやすい海外訪問は当分、ご遠慮いただく」という方針を打ち出し、皇太子ご夫妻の海外訪問を“禁止”したのだった。
実際、前述の中東以降、鎌倉氏が退任後の2002年12月の豪州・ニュージーランド訪問まで、雅子さまは8年間も海外に赴かれることはなく、“空白の期間”となった。
2001年12月、愛子さまが誕生されたが、結局、鎌倉氏の在任期間中にはお世継ぎは誕生せず、雅子さまとの間には複雑な感情が残ることとなってしまった。前述した、2002年の豪州・ニュージーランド出発前の会見で、雅子さまはこう語られている。
「正直を申しまして、私にとりまして、結婚以前の生活では私の育ってくる過程、そしてまた結婚前の生活の上でも、外国に参りますことが頻繁にございまして、そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから、(妊娠、育児の2年間を除いた)6年間の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」
“海外訪問で能力を発揮したい”“皇室外交で能力を発揮したい”──それが雅子さまの強い願いだったことが表れたお言葉だった。
「実際、皇太子さまはプロポーズされたとき、結婚を躊躇される雅子さまに対して“外交という分野では、外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも、国のためという意味では同じではないでしょうか”と説得されています。ですから鎌倉氏の方針は、皇室の将来を考えたこととはいえ、雅子さまの“皇室外交”へのお気持ちを無視したものだったため、人格否定発言が波紋を呼んだ際に、宮内庁内部や皇室記者の間では鎌倉さんに対するさまざまな声が噴出しました」(前出・当時を知る皇室記者)
その後、雅子さまは「適応障害」と診断され、現在に至るまで、治療を続けられている。そんないわば“天敵”とも呼べる人物の死の直後、宮中晩餐会での“皇室外交”に力を発揮された雅子さま。なんとも不思議な運命といえよう。
※女性セブン2014年11月20日号