50年以上にわたる高倉健さんの俳優人生で、降旗康男監督はもっとも多くコンビを組んだ監督の一人だろう。2年前の『週刊ポスト』連載『現場の磁力』での取材に、降旗監督ほかスタッフらが語った高倉さんの「銀幕の向こう側」の姿について、同連載を執筆した作家の山藤章一郎氏がレポートする。
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素顔はほとんど伝えられなかったが、たたずまいの片鱗は幾つか垣間見えた。いずれも「不器用な」「愚直な」「一途の」と、誠実な職人気質を表わす評に通じている。食い物の遺聞をひとつ。
東映撮影所の近くに古ぼけた小さな中華料理屋がある。「明明(みんみん)」という。代を継いだ倅・平山貴明さんが親父時代のことを懐かしんで語っていた。
「東映が元気な時代ですよ。何百人の社員がいて、組合が強いから、めしの時間は決まっている。夕方5時撮影中断。どっといっぺんに注文が来る。高倉さんの部屋は奥。手前が30人ほどの大部屋。健さんはいつも130円のチャーハンです。大部屋の人たちにも同じものをずっとご馳走したといいます」
類した話は枚挙にいとまがない。煙草、酒、麻雀をやらず、女もいかなかった。「サザエさん」役で大当たりを取った江利チエミさんと結婚したが、妻は重度の妊娠高血圧症候群に罹り、中絶を余儀なくされた。
41歳の折りに、「この世に生を受けなかったわが子のために」と碑を刻み、水子地蔵を配した生前墓を鎌倉霊園に持った。
『鉄道員(ぽっぽや)』『ホタル』で降旗さんの助監督を務めた佐々部清さんが語っていた記憶も高倉さんの人柄を表わして温かい。
「『鉄道員』の完成をお祝いした時でしょうか。撮影所の中で、降旗さん、高倉さんを真ん中に記念写真を撮ったんです。倉庫整理の人、美術、カメラ整備など東映を下支えして定年を迎えられたり、退職した人たちを含めて100人ほどが集合しました。何十年、ともに映画をつくってきた人たちです。みな、おじいちゃんです。高倉さんは全員の名前を憶えていました。
昔から、『そこの照明』とか絶対いわない人でしたが、その時もみなさんの名前を呼んで、おじいちゃんたち泣いておられました」
※週刊ポスト2014年12月5日号