〈倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて國邑を為す。旧百余國。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十國〉邪馬台国や卑弥呼について記された唯一の資料、『魏志倭人伝』の冒頭である。この中国の歴史書に書かれた記述がその後、現代に至るまで日本成立に関わる論争を引き起こした。文化庁主任文化財調査官が邪馬台国の「今」を語る。
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邪馬台国は日本の古代国家成立にかかわる重要なテーマである。古くは江戸時代の儒学者・新井白石や国学者・本居宣長らがその謎を解き明かそうとした。肝心の所在地をめぐっては、現代まで論争が引き継がれている。
『倭人伝』によれば、邪馬台国までの道のりは朝鮮半島中西部の帯方郡から対馬国(対馬)や一支国(壱岐)を経由し、不弥国(福岡県飯塚市付近)まではほぼ特定できる。
しかし、そこから南に船で20日行くと投馬国に着き、さらに船で10日、陸路1月で邪馬台国に着くという記述をそのまま辿ると、邪馬台国は九州のはるか南の洋上に存在したことになってしまう。そこで、投馬国から邪馬台国までを「船なら10日、陸路なら1月」と読む九州説や、不弥国以降の〈南〉を〈東〉と読み替える畿内説などが提起された。
その後、九州、畿内を2大候補地としながらも、北は東北地方から南は沖縄まで、日本各地に可能性が唱えられた。しかし、『倭人伝』を元にした論争は解釈の域を出ることはなく、決着を見ない。そこで考古学の出番となった。考古資料を検証するのである。
中でも重視されてきたのが銅鏡だ。2世紀前半までは九州北部を中心に出土していたのが、2世紀末から3世紀初めには近畿を中心に出土するようになる。例えば「画文帯神獣鏡」は、分布を研究した大阪大学の福永伸哉教授によると、2世紀後半から3世紀初めの近畿を中心に分布している。