読売ジャイアンツがV9の7年目の1971年、世間では「強すぎて面白くない」といわれるほど、川上巨人の戦力は盤石になっていた。その年に一軍に昇格し、円熟期を迎えていた巨人の強さに直に触れた右腕・関本四十四(しとし)氏が、そのベンチ裏を語る。
関本氏は糸魚川商工(新潟)から1967年のドラフト10位で巨人に入団。プロ入りして丸3年間は一度も一軍登録されず、4年目にいきなり開幕一軍デビュー。その年に10勝11敗の成績で新人王に輝いた。関本氏が語る。
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当時の給料は手渡しです。西銀座にあった球団事務所から、ヨボヨボのお爺さん職員が風呂敷包みに入れて後楽園球場まで運んでいました。今考えたらよく襲われなかったものです(笑い)。
ロッカーに集められて茶封筒が1人1人に配られるので、他の人がどれくらいもらっているかがわかる。ONのは分厚くて机の上に立っていました。森(祇晶)さんや他のベテランがその半分くらいで、ホリ(堀内恒夫)さんがさらにその半分、僕ら若手はペラペラ。給料日は一番情けなかった(笑い)。でも遠征先での飲み食いはONが全部お金を出してくれたりしました。
振り返ってみても、ONと一緒にグラウンドに立ち、ONをバックに投げられたのはかけがえのない宝です。4年目の春、一軍に上がって初めて王(貞治)さんとキャッチボールをやった時のことは今でも鮮明に覚えています。手が震えてちゃんと投げられなかったんです。
長嶋(茂雄)さんに誘われて食事に行った時も、食べながら夢を見ているんじゃないかと、爪楊枝で自分の太股を突っついていたくらい。その思い出だけでも、孫子の代までの自慢ですよ。
※週刊ポスト2014年12月12日号