1979年1月、奥田瑛二と結婚した安藤和津(66才)は、元法務相・犬養健氏と料亭「をぎ乃」の経営者である母・荻野昌子氏の間に生まれた。母は自立した人物だったものの、奥田・安藤夫妻が母と同じマンションに引っ越してから多いときには日に20回以上もかかってくる電話や過剰な干渉を受けることとなる。
さらにはピアノの先生に未払いの月謝を催促され、先生の顔に向かって札束を投げつけたり、電話の子機やテレビのリモコンの操作がうまくいかないと、床に叩きつけて壊してしまう母に耐えられなくなっていったという。安藤が、そんな母の介護生活について語った。
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明らかに常軌を逸していた母を検査入院させたのは、1998年2月のこと。母はそこで初めて脳腫瘍と病名を告げられました。
「脳腫瘍ができて、おそらく30年は経ちますね」
医師の言葉に私は愕然としました。大きくなった腫瘍が脳の感情を司る部分を侵し、自分をコントロールできなくなっていたというのです。
<病気がママを悪魔にしちゃったんだ。それなのにママを心底憎んで…。あんなに苦労して私を育ててくれて、家族のために愛情を注いでくれたママに本当に申し訳ない>
私は泣き崩れました。さらに、医師からは認知症特有の症状がますます進んでいくと告げられました。
「家族みんなでおばあちゃまを支えていこう」
私の言葉に長女の桃子も次女のサクラも、すぐさまうなずきました。
「一緒に住んで面倒をみよう」
奥田がそう言ってくれたことはありがたかった。そこから介護の日々が始まりました。夜は寂しさから15分おきに起こされ、2時間おきにおむつの交換。大柄な母のトイレ介護では、肩を脱臼したりギックリ腰になったこともありました。
介護に下の世話はつきもので、排泄するのは生きている証でもつらいものです。ある日のことです。私の友達が家に遊びに来たときに、母が下半身裸のままでヨチヨチ歩き、部屋から出てきて、おむつを片手に私に媚びへつらうような目をして、「ねえ、あんた、これ当てて」と言うんです。
あのプライドの高い毅然とした母が…ショックでしたね。母がどんどん小さくなっていって。そんな時に支えになったのは奥田の存在でした。印象的だったことがあります。
ウンチを漏らした母のパジャマのズボンを脱がして、トイレに運ぼうとした時、母の意識がもうろうとして、私の上にもたれるように倒れてしまいました。母の体重は70㎏以上あって、私ひとりでは支えられない。
「お義母さん、ぼくならいいよね」
偶然帰宅した奥田が駆け寄ってそう言うと、母は「うん」とうなずきました。下半身裸で汚物まみれの母のお尻を抱えた奥田はお尻を洗うのも手伝ってくれて、そのままベッドまでおんぶしてくれました。脳腫瘍と診断されて3年。
<あー、いつの間にか、夫と母はこんな関係になっていたのね>
そう思うと熱いものがこみ上げてきました。介護は確かにつらいことです。見おくるのもつらかった。でもこうして振り返ると、人生でマイナスの要因には全くなっていないことをあらためて感じます。
人ってなんだ、生きるってどういうことなんだということを、母は私たちに見せてくれたのです。
※女性セブン2015年1月22日号