百田尚樹氏の『永遠のゼロ』の影響か、特攻隊に関心をもつ若者が増えている。今の日本では、戦争もなく、貧困や犯罪などで死に直面することも稀である。自らの生と死を確認する術のない社会に生きる若者たちが、家族を守るために命を捨てた特攻隊に関心を持つのも無理はない。
日本が追い詰められ、決死の覚悟で臨んだ戦争を象徴しているのが特攻であった。特攻隊の若者たちの心に、激しい葛藤があったのは間違いないが、それでも最後は「無私」に行きついた。特攻の根底に流れていたのは、「あきらめと覚悟」のような日本的精神であった。そのことを忘れてはならない。
哲学者の西田幾多郎は、人間は主体として常に理性的な計算によって行動するのではなく、「無私の精神」にたって、自分を殺し、無の境地になって、与えられた状況のなかで己の役割を果たそうとするのが日本的な心情だと考えていた。西田は別に特攻を支持したわけでもないし、特攻について書いているわけでもないが、この種の日本的精神が特攻の精神の根底にある。
ところが、戦後の民主教育では、戦前を全否定したため、「命は地球より重い」というような「生命至上主義」が生まれた。無私の思想は私的権利の主張に置き換えられていった。
しかし行き過ぎた生命至上主義は戦後「平和主義」を掲げた日本に独特のもので、西洋にはない。西洋の多くの国では、憲法で「祖国の防衛は市民の義務」と謳われている。社会契約論を唱えたルソーも、「市民は祖国のために死ぬべきだ」と述べている。主権が王にあれば、王が臣民の生命・財産を守るが、主権が国民にあるなら国民が自ら守るという当たり前の理由からだ。
「市民」に国防の義務があるといわれると、違和感を覚える人も多かろう。日本では、「市民」は国家と対立し、私的な権利や利益を要求する主体であり、「国民」は国家の統治機構に組み込まれた人々ととらえられている。
しかし、西洋における共和主義の思想を辿っていくと、本来、市民と国民は同義である。むしろ国民と市民の乖離が日本の特異性を象徴していると言える。
民主主義国の多くが兵役を「市民的義務」としていることの意味を考えてみるべきである。現実には現代のハイテク戦で、素人を徴兵して戦力になるのかという問題はあるが、いずれにせよ市民の広い意味での公共的精神を涵養(かんよう)することは不可欠だ。
中学生か高校生の頃に、社会福祉の仕事や自衛隊の体験入隊などの経験を通して奉仕や国防の実際を知ることをやってもよい。本当は自らに課せられた義務を意識し、自発的に「無私」の心で仕事や訓練をするというのが理想だ。
若い人たちも、少なくとも「無私」へ向かう心が日本の精神的伝統のなかにあったことを知って、受け継いでいってもらいたいと願う。
文■京都大学大学院教授・佐伯啓思
※SAPIO2015年2月号