現役時代に巨人キラーとして知られた大洋ホエールズ・平松政次氏は、1970年には25勝を挙げて最多勝、沢村賞などを獲得した大洋のエース投手だった。長嶋茂雄氏も「平松のシュートは打てなかった」と悔しそうに振り返っている。高校、社会人時代はストレートとカーブのみで、代名詞となるシュートを投げるようになったのはプロ入りしてから。最強の武器となった“カミソリシュート”誕生の秘密について、平松氏が語った。
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シュートを覚えるきっかけは1967年、社会人時代のキャンプで名前も知らなかった日石(日本石油)のOBの方に、「お前、シュートの投げ方知ってるか?」と聞かれた時です。
知らないというと、その左投げのOBは“こう握って、こう投げるんだ”と何球か投げて見せてくれたんです。後で聞くと、藤田(元司)さんと同級の慶大出身の人でした。そうやってシュートは一応覚えていたのですが、社会人まではストレートとカーブだけで十分三振がとれていましたから、投げる気は全くなかった。
ところが3年目の春のキャンプでのことでした。雨が降ってグラウンドが使えず、体育館の板張りの床の上で投球練習をしていた時です。
若手が並んで投げているところへカズ(近藤和彦)さんとアキ(近藤昭仁)さんがやって来て打席に立った。しばらくして2人は「平松、こんな球しかないのか」というわけですよ。それでカーッと頭に来て、
「シュートもあります!」
と、売り言葉に買い言葉でいってしまった。それで打者に対して投げたこともないシュートを投げる羽目になった。
するとこれが、直角に見えるくらい曲がる。投げた僕が驚いたくらいだから、打席のカズさんは腰を抜かしていました。6球投げてみてこれは凄いということになり、カミソリシュートが誕生した。だからものすごい練習を重ねてやっと生まれたものではなく、突然降って湧いたという感じだったんですよ。
周りは興奮して「何でこの球を使わないんだ」と怒ったけど、まさか初めて投げたとはいえませんから黙っていました(笑い)。これをきっかけにシュートを投げるようになり、ピッチングに威力が増した。この年以降、長嶋さんに打たれた記憶はないですね。
※週刊ポスト2015年1月30日号