一度しかない親の葬儀にどう向き合うか。NHK連続テレビ小説『マッサン』で、主人公夫妻を人情深く支えるニシン漁師の網元・森野熊虎役を演じる風間杜夫さん(65才)が、亡き父を語る。
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「おれはな、どこかで潔くポックリ死んでやる」
そう言っていた親父が脳梗塞で倒れたのは、25才でぼくが所帯を持った翌年だった。親父が倒れた頃からぼくの仕事は忙しくなった。もう少し元気でいてくれれば、小遣いもあげられたし、飲みにもうまいものを食べにも連れていってあげられたのに。
リハビリもする気はなく入退院を繰り返し、体も動かず口もきけず、頭だけはしっかりとしていたのだから、親父の脳裏には日々無念さが過ったことであろう。病院に入院している親父を見舞いに行くと、「おーおーおーっ」と声を出して泣かれて、ぼくの手を握って離さない。そんな姿を見るのがつらくて足が遠のいたが、振り返ってみるともうちょっと親父に、会ってやればよかった…。
倒れてから12年間、主におふくろとぼくのカミさんが親父の面倒をみた。ポックリ死ぬどころか、家族に迷惑をかけ通しだった。1989年11月、親父が85才で亡くなったとき、ぼくはテレビ時代劇ドラマの撮影で京都にいて、夜中、祇園で麻雀を打っていた。朝方、連絡を受け急きょ家に戻ると、親父の遺体が自宅に寝かされていた。
泣いているのか笑っているのか、わからない親父の死に顔を見て、親父の思い出が走馬灯のように脳裏に浮かんだ。トラのパンツをはいた野球の応援、ガマの油売りの口上、鞍馬天狗の格好をした若い頃の写真もあった。
親父、本当は自分が役者になりたかったんじゃないか。ぼくは親父の遺体の枕元に『蒲田行進曲』で演じたスター、銀ちゃんの等身大のパネルを置きたくなったよ。
親父の葬儀は家に近い世田谷区野沢の寺で盛大に執り行われた。事務所と地域の人たちが取り仕切ってくれた葬式は、浅草の菩提寺から導師を招き、各テレビ局や映画関係者、親交のある俳優さんからの生花で祭壇は埋め尽くされた。
テレビカメラも入って、当時共演していた里見浩太朗さんも弔問に訪れてくれた。
通夜の弔問客も途絶え、久しぶりに集まった役者仲間と宴会になり、夜遅くまで飲めや歌えの大騒ぎになった。にぎやかなことが好きだった親父だから、きっと草葉の陰で喜んでいるだろうなと思いがよぎり、涙がホロッとこぼれた。
「あんないい人はいなかった。あんな優しい人はいなかった…」
葬式も無事に済んで、近所の人たちと家で一息ついていると、おふくろはそう言いワーワー大泣きをしている。
そんなおふくろを見ているうちに、ぼくはだんだん腹立たしくなって、「ちょっと待てよ、おふくろ、親父のことをおれに何と言っていた?“早くくたばればいい、このクソジジイ!!”って、口癖のように言っていたじゃないか」と少し声を荒立てると、わが家に集まっていた近所のおばちゃんたちが、「まあまあ、トモちゃん」となだめるように間に入った。
死ぬと楽しかった思い出だけが鮮明によみがえってくる。嫌なことは忘れたいんだ。夫婦というのはそういうもんじゃないか。
元気な頃はおふくろに手を上げたこともあったが、振り返ると倒れて弱って自分にすがるように、赤ん坊のようになっていく連れ合いを、おふくろはかいがいしく世話を焼き見届けた。
親父を見おくると、71才のおふくろは生き生きとして、書道や生け花に打ち込んで師範になったりした。豪華客船で海外旅行をして、赤いTシャツに光り物をいっぱい身につけ、日本に帰ってきたときはさすがに驚かされた。
趣味に打ち込む一方で、ぼくの舞台は必ず見に来てくれた。
「お前は他の役者と違う。指先まで芝居をしているね」とか、楽屋ではこちらが気恥ずかしくなるほど、大きな声で褒めてくれた。 「何せあんたは体格が外国人離れしているから、和服が本当に似合うわ」
外国人離れしているとは純和風ということで、これもおふくろの褒め言葉だった。
※女性セブン2015年2月5日号