1月17日に行なわれたセンター試験の国語の試験問題で、評論家の佐々木敦氏がツイッターについて論じた内容が含まれる一節が採用され、話題となった。佐々木氏は当日夜、ツイッターで「そもそも俺が正解できるのか」と述べたが、著者がテストに反論したくなるケースもある。
フリーライター・岡田仁志氏は著書『闇の中の翼たち―ブラインドサッカー日本代表の苦闘』(幻冬舎刊)が関西地方の私立中学校の入試に採用された際、自分の意図とは全く違うことを“正解”にされた経験を持つ。
「傍線部の筆者の心情を答える問題で、『ア~エ』の選択肢をいくら読んでも、私の考えを正確に書いたものがないんです。障害者スポーツであるブラインドサッカーを観戦したシーンの心情について、『これまでは障害者は何かが出来ない人と決めつけていた』といったキレイ事の選択肢が“正解”にされていたのですが、むしろそうした教科書通りの考えを批判したくて書いたところもある本ですから、少し頭にきました。
しかも問題文を精読すると、原文から一部が削除されていて、その削られた箇所というのが、まさに『筆者の心情』を端的に述べているところだったのです。問題を作る人も大変でしょうが、ちょっとやり過ぎじゃないかと思いました」
そうした事態を嫌ってか、試験問題に採用されることを拒む作家もいる。島根大学法文学部の武田信明教授がいう。
「たとえば大江健三郎氏などは、ペンクラブを通じて自身の作品を入試に使用することを拒否しています。ただ、私は問題を作る側でもある。どんな文章でも、論理的な考え方のできる者には答えられる箇所を選んで問題を設けるよう心がけています。私自身が体験したように、著者が戸惑うことは当然あり得ますが、著者本人が解けるかは設問の善し悪しとは別問題であることも、また事実なのです」
著者の意図に思いを馳せ、出題者の意図を読み解く。真の「国語力」を磨くにはどちらも必要だ。
※週刊ポスト2015年2月6日号