芸能レポーターの草分け的な存在だった梨元勝さん。時として不都合な真実を明かすことがありながらも、謙虚で人間味溢れる人柄から多くの芸能人から愛される希有な存在だった。だがその一方で、娘の梨元麻里奈さん(34才)とは長く疎遠な関係だったという。
2010年に勝さんの肺がんが見つかり、65才で亡くなるまで、娘としてどんな言葉を交わしたのか。麻里奈さんが、父との最後の団欒を振り返る。
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父の体に異変が起きたのは2010年4月末。咳が止まらず病院を訪れると、肺に白い影が見つかり肺炎と診断され入院しましたが、病状が改善しない。再入院して肺の組織検査をしたのですが、
「残念ですが、肺がんです」
それが6月2日でした。先生たちからそう告げられたと、母から沈んだ声の電話をもらって、私は泣き崩れました。でも、泣いてばかりはいられません。
「もしぼくががんになっても教えないでほしい」
若い時から母にそう告げていた父でした。それが病室で母といるときに告知をされ、がんがステージ4であることも、主治医の先生から宣告されたのです。母は父の精神状態を心配しましたが、父は意外なほど明るかった。
「大丈夫だよ、すぐに仕事に復帰できるよ」
最悪の状態のステージ4と宣言されても、がんの進行のステージは10まであると父は思っていたみたいです。完治は無理でもがんと共存していけるとの思いは抱いていたのでしょう。
人のことを言ったり書いたりしてきたのだから、病気になった自分をすべて報告すると、抗がん剤治療も自分が運営するウェブサイトで逐一伝えたのは、父らしいレポーター魂だと感じました。
「麻里奈、お父さんの代わりに番組に出演してくれないか」
体力的に地方に行くのが難しくなった父に代わり、福岡と愛知のテレビ局の番組に出演し、父から聞き取った話を報告する。私はそれまで頑なに断っていたレポーターの仕事を躊躇なく引き受けました。父が後ろにいるので、怖さはありません。
「いいね、バッチリだよ、完璧だ!」
抗がん剤の影響で髪の毛が抜けた父は、病室のパソコンで、私が出演した番組の録画を見ると、満面の笑みでただ私を褒めるばかりでした。私が代わりに行ってくれたことが嬉しくてたまらなかったんでしょうね。父をサポートしているという充実感はありましたが、今にして思えばもっと厳しい言葉でダメ出しをしてほしかった。
病室での生活は私たち家族にとってかけがえのない期間でした。それまで家族がそろって夕食を食べることもあまりなかったから、病室で宅配のピザを家族3人で食べたことは貴重な想い出です。
抗がん剤の副作用で味覚がおかしくなり、肉が紙を食べてるように感じるとか砂のようだと言うので、自宅から病室にいろいろと調味料を持ち込みました。不思議とチリソースが「おいしい、おいしい」と言うので、その後は病院食のお粥にもかけました。
7月11日は、母の64回目の誕生日でした。「お母さんを驚かせよう」と、私がサプライズのケーキを病室に用意し、父と2人でハッピーバースデーを歌い、父はいつものように原稿用紙に書いた《お誕生日おめでとう!》という手紙を母に手渡しました。
「本当に一家団らんだね」
父の2か月半ほどの闘病生活で、母がつぶやいた言葉です。家族がいちばん密になれた、気持ちが通じ合えた、強い絆を感じ合えたと私も感じています。
でもね、お母さん、それまでお父さんと暮らした時間はいっぱいあったのに、もっとお父さんと話をすることも、もっともっとお父さんに、優しくしてあげることもできたのに、家族が本当に密になれたと感じられた場所が、病室だったというのは、あまりにも切ない…。
※女性セブン2015年2月12日号