国民的鍋のすき焼き
冬の国民的鍋のひとつすき焼きに関西流と関東流があることはご存じの方も多いだろう。しかしどこまでが関西流で、どこから関東流なのか。すき焼きの「分水嶺」について、食文化に詳しい編集・ライターの松浦達也氏が解説する。
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それぞれの地方色が色濃く反映される食べ物がある。すき焼きなどはその象徴的メニューだ。関西圏では牛脂をひいたところに、肉を敷く。その上から直接砂糖と醤油をかけて焼きつける。一方、関東のすき焼きは明治期の牛鍋を祖とする。タレで煮る牛鍋に関西風のすき焼きが入ってきて、「割り下」方式の関東風すき焼きができあがった。
明治生まれのコメディアン、古川緑波のエッセイ『牛鍋からすき焼へ』に明治末期の記述がある。
「その頃は、牛鍋は、ギュウナベと言いました。今でこそ、牛肉すき焼と、東京でも言うようになったが、すき焼というのは、関西流で、東京では、ギュウナベだったんだ」
一般に関東と関西での食文化の分水嶺――”分食嶺”は北陸三県の両白山地から滋賀県・琵琶湖の東岸を通って、鈴鹿山脈、紀伊山地と垂直に日本列島を縦断する線上にある。納豆を常食する/しないの分水嶺もそこだし、「炒飯」における呼称の「東のチャーハン、西のヤキメシ」問題も同様の線が引かれる。東西を分かつ山地と琵琶湖という日本一の面積を誇る湖が東西の人の行き来と文化の往来を阻んでいたのだ。
ところが、すき焼きの”分食嶺”はほかのメニューと異なっている。割り下を使わない関西風が、ほかの”食”では関東に飲み込まれがちな愛知県や岐阜県にまで勢力を伸ばしている。すき焼きに限っては、関東風、関西風の分食嶺は東にズレるのだ。起点となる北陸地方は変わらずとも、そのラインは右のほうの岐阜を回りこんで愛知県へと降りてくる。時計の針で言うと5時50分を指すような形でぐるりと迂回する。
その理由はすき焼きが「牛」の料理だからだ。
「実は、彦根藩(編注:現在の滋賀県)は、江戸時代に生牛屠畜と牛肉生産を公認していた唯一の藩であった。そして藩内で生産された牛肉の味噌漬や干肉を将軍家や時の老中、諸侯らに献上・贈呈していた」(『牛肉と日本人』吉田忠(農文協))
彦根牛肉が生産されていたのは琵琶湖東岸の中央やや北部。近江牛で知られる近江はそこから南方に20kmほどくだったところ。他の食べ物なら分水嶺になるはずの琵琶湖東岸が牛肉の生産地だったからこそ、関西風のすき焼きは岐阜や愛知のほうへと広がった。
すき焼きにおける”西の常識”――「割り下なんてありえへん。”すき焼き”というからには、肉を焼いてパッと砂糖を振って、醤油をちょんちょん、や!」(大阪府・40代・男性)が適用されるエリアは、他の食べ物よりも少しばかり広い。