【書評】『ジョン・レディ・ブラック 近代日本ジャーナリズムの先駆者』奥武則/岩波書店/6800円+税
【評者】岩瀬達哉(ノンフィクション作家)
幕末・維新期の日本に、世界標準の新聞を根付かせた英国人ジョン・レディ・ブラックは、明治期に活躍した初の外国人落語家、初代快楽亭ブラックの父親でもあった(現在、寄席に出ている快楽亭ブラックとは関係はない)。
「近代日本のジャーナリズムの父」としてメディア史に名を刻むこの人物と家族の数奇な人生を、驚くばかりの根気と執念が掘り起こしたユニークな評伝であり、メディア史である。
もともとは、スコットランドで英国海軍士官を輩出してきた名門の出であったが、ビジネスの世界に進み、オーストラリアに移住。貿易商や保険代理業で一時は大きな成功を収めたものの、破産の憂き目にあうや、今度は、オルガンも弾ける「歌手ブラック」として再出発を期す。
インドや中国を遍歴し、「次の『出稼ぎ先』として横浜を選んだ」ことで、「新聞人ブラック」が誕生することに。巡業先の日本で、英字紙「ジャパン・ヘラルド」を経営していた英国人と知り合ったからだ。「漂泊ともいうべき人生」で養われた批判精神に加え、「文章力に隠れた天分があった」からであろう、同紙の「編集責任者・共同経営者」に迎えられている。
ここから、「新聞人ブラック」の真骨頂が発揮される。いくつかの挫折を乗り越え、数年後には、日本語の「日新真事誌」を創刊。「明治知識人たちに衝撃を以て迎えられ」、その影響力は、明治政府にとって、「『世間を煽動する』する“危うい存在”に見えた」ほど絶大だったという。
「若い日本」に来て、「その国の人々にジャーナリズムのあり方を先駆的に示し」ながら、その先駆性ゆえに政府から恐れられる存在となった。
やがて、「巧妙に仕掛けられた『罠』」によって放逐されてしまうのだが、ブラックの「政治的リアリズムの欠如」は、御用新聞ではなく、英国流のジャーナリズムを示そうとの気負いによるものだったのだろう。今日に通じる問題提起を残した人だった。
※週刊ポスト2015年2月13日号