社会部記者出身のジャーナリストとして、時に冷静に、時に熱くニュースを解説する大谷昭宏さん(69才)。そんな彼を育てたのは職人の父と高等女学校出身の母だった。大谷さんが亡き父と母を語る。
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1909年、三重県伊勢市に生まれた親父は高等小学校を卒業すると、14才で故郷を離れ、縫製職人をめざして銀座の老舗の米田屋洋服店に奉公に入った。
「100人の職人の中で、店で仕事をしたのはおれぐらいだ」
ぼくが物心つくころ、丸ビル内の店舗で接客を担当していた親父はいつもそう自慢していた。昔気質の職人は気難しいものだが、親父は陽気な人だったから、お客さんにもかわいがられたのだろう。
家庭でも、家族思いで子煩悩な人だった。野球の東映フライヤーズの試合を見に、1才年下の弟と一緒に自宅近くの駒澤球場に連れて行ってもらったのを覚えている。
親父は動物が好きで、犬とかチャボも広い庭に放し飼いにしていた。ぼくの犬好きはそのせいだ。今飼っている犬でもう4代目になる。そんな親父が見合い結婚したおふくろは、静岡県の三島市にある高等女学校を卒業した才女だった。
「お前たちはお母さんがいたから、何とかなったんだぞ」
晩年、酒好きの親父と杯を重ねるといつもそう言った。教育に関してはおふくろにすべて任せていた。子育てに熱い人だった。
「親が残すものは教育だけだ。財産を残しても子供はロクなものにならない」
そんな言葉を何回も聞いた。家業を継げと言われたことはない。これからは工業化し大量生産の時代になると、おふくろはわかっていたのだろう。
ぼくも弟も、優秀だといわれていた隣の学区の中学校に越境入学させている。そう、中学時代の想い出といえば運動会の時だ。体のでかい弟が、バトンのリーダーとして華やかな服を着て、先頭を行進するのを見て感極まった親父は、「おれはもう死んでもいい!」とか口走る。すると横でおふくろが、「こんな程度で死なれたら困るじゃないか」と笑顔で親父を諭す。
陽気で酒好きで子供を溺愛する親父と、じっくり先を考えるしっかりもののおふくろと、相性のいいコンビだった。
■聞き手・文/根岸康雄
※女性セブン2015年2月19日号