「家族も私も、健二の死の知らせに打ちのめされています。(中略)大きな喪失感を感じる一方で、イラクやソマリア、シリアのような紛争地域で、窮地にある人々の現状を伝えてきた夫を大変誇りに思います」
「イスラム国」に拘束・殺害されたジャーナリスト・後藤健二さん(享年47)の妻は、フリージャーナリストの支援団体を通じて、そうコメントした。政府は後藤さんの遺体の引き取りは困難と判断していて、妻は愛する夫の遺体に会うことすら難しい。
「遺体に会えないのは、本当につらいと思います」。そう後藤さんの妻の胸中を察するのは、橋田幸子さん(61才)。2004年5月、イラク戦争を取材中にバグダッド近郊で武装勢力の襲撃を受けて亡くなった、戦場ジャーナリスト・橋田信介さん(享年61)の妻だ。
幸子さんは信介さんが他界した4日後、クウェートの米軍キャンプで変わり果てた姿の夫と対面した。遺体は焼け焦げていた。周囲から「見ないほうがいい」と止められたほどだった。
「亡くなったというニュースだけでは、夫の死を受け入れられなかった。夫の遺体を見て、初めて亡くなったという実感を持てたんです」(幸子さん)
幸子さんは大学時代に日本電波ニュース社のカメラマンだった信介さんと知り合い、1979年に結婚。信介さんは1988年にフリーになると、カンボジア、アフガニスタン、パレスチナなど、数々の戦場を飛び回った。
「1年の3分の1は紛争地などに行っていました。1回の取材で数週間から長ければ2か月いないときもありました」(幸子さん)
スーツケースのパッキングは幸子さんの役目だった。着替えは2~3枚程度で、トイレットペーパーは芯を抜き、潰して小さくして入れる。そしてチョコレートを必ず入れた。幸子さんは当時を振り返ってこう話す。
「彼は国内用や海外用など複数の携帯電話を持っていて、『イラクに入ったぞ!』だったり『すごい映像が撮れたぞ!』だったり、動き回る先々から電話をかけてきてくれました。時差があるから電話がいつ鳴るかわからない。早朝も深夜もすぐに出られるように気を張っていました。電話が鳴ると、私はツーコール以内で必ず出る。そして、彼の元気な声を聞いて安心するんです。その繰り返しでした」
信介さんは取材が終わり家に帰ってくるとチャイムを繰り返し鳴らし、ドンドンドンとドアを激しく叩いて“主”の帰宅を知らせた。そして、「ただいま」と言うなりシャワーを浴び、テレビ局と連絡をとり始める。毎回それがお決まりの光景だった。
戦場ジャーナリストの収入はスクープ映像を撮れるか撮れないかで大きく変わる。
「5分間の映像が200万円から300万円で日本のテレビ局に売れたことがありました。でも、時には赤字のこともあります。当時はタイに住んでいたので、私がテレビ番組のタイでの取材コーディネーターをして生活費を稼ぎました」(幸子さん)
幸子さんは1982年に長男を出産。それから戦場ジャーナリストの妻として、ある覚悟が生まれたという。
「信介さんに生命保険に入ってもらいました。夫に何かあったとき、私ひとりできちんと息子を育てていかなければいけないと、思うようになったんです」(幸子さん)
また家族が3人になってから、橋田家には、ひとつの約束事ができた。信介さんが戦場に出かける当日の朝、玄関先で家族全員が抱き合う。そして幸子さんが「まだ未亡人になりたくない」と言ってから信介さんを送り出すのだ。
「無事に帰ってきてほしい、という私の胸の内をわかってくれていたと思います」(幸子さん)
※女性セブン2015年2月26日号