1965年、岡山・倉敷商のエースだった松岡弘は、夏の甲子園岡山県予選の準決勝で平松政次率いる岡山東商と対戦し、引き分け再試合となった末に敗退する。平松は東中国大会決勝で関西・森安敏明に投げ勝って甲子園に出場し、平松、森安、松岡は「岡山三羽ガラス」と呼ばれ注目された。その後プロ入りし、サンケイとヤクルトで通算191勝をあげた松岡氏が、野球人生を振り返る。
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倉敷商では1年先輩に星野仙一さんがいました。練習を仕切るのは監督でも主将でもなく、星野さん。試合中でもマウンドで「何をしよるんならー!」と吠えていましたね(笑い)。
星野さんや平松、そして僕と岡山県人にはなぜか巨人キラーが多い(巨人戦勝利数で平松は歴代2位の51勝、星野は同6位の35勝)。当時、岡山のような田舎では野球のテレビ中継が巨人戦しかなく、野球といえば巨人でした。これは、他の地方も同じようなものだったかもしれませんけどね。
だから星野さんも平松も、巨人に行きたいという思いを強く持ったのだと思います。それで誰も行けなかったから、意趣返しで巨人キラーになったんでしょう(笑い)。
でも、僕はちょっと違うんです。もちろん長嶋茂雄さんや王貞治さんには憧れましたが、熱烈な巨人ファンではなかった。ONをバックに投げたいなんて思ったこともない。あくまでも巨人は、最初から「倒すべき相手」でした。
その頃は巨人に勝たなければ人気は出ないし、顔も覚えてもらえない。日本テレビが中継する後楽園球場での巨人戦で巨人を倒さないと、全国ニュースには取り上げてもらえない。有名になるために巨人戦で投げたい、ただその一心でした。巨人戦に勝ったからといって給料が上がるわけでもないから、単にプライドの問題でした。
※週刊ポスト2015年2月20日号