60年安保闘争の時代に反代々木(日共)系ブント(共産主義者同盟)全学連委員長だった唐牛健太郎(かろうじけんたろう)は、北海道大学在学中の1959年に全学連院長となり若者たちのカリスマとして絶大なる支持を受け安保騒動を指導した。その唐牛らに資金提供したのは、元共産党委員長で天皇主義者のフィクサー田中清玄(たなかきよはる)だった。若者らの背後に蠢いた右左、表裏の様々な人々について、ノンフィクション作家の佐野眞一氏が綴る。
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私はいま、時代の星といわれた唐牛健太郎の評伝を書くために取材中だが、それは彼の47年という短くも波乱に富んだ生涯を通して60年安保とは一体何だったのかを探るためだけではない。
唐牛の兄貴分格の全学連元書記長の島成郎(しげお)が吉本隆明に資金を提供して出版した「試行」という個人誌は、私が決定的な影響を受けた雑誌だったし、安保闘争後、田中清玄が遭難した1963年の銃撃事件とも不思議な縁で結ばれている。
この事件の犯人は東声会の木下陸男といい、私がまだ20代の頃、毎晩ポーカーをやるような間柄だった。
木下(われわれは紅(べに)さんと呼んでいたが)は、「昨日、××をクソの出るほどぶん殴ってやった」というのが口癖の一見凶暴な男だったが、実は気のいい男だった。
銃撃事件のことを聞くと、「田中が昔から仲がよかった三代目山口組組長の田岡(一雄)さんに話をつけて関東やくざを攪乱しようとしているとの噂が立ち、東声会の町井(久之)会長が非常に苦しい立場に追い込まれたためにやった。金は児玉誉士夫からもらった。ピストルを3発ぶち込んだが、人間って案外死なないもんだよ」と、あっけらかんとした顔で言った。
その頃、私は東声会の幹部が経営する新宿のタウン誌で働いていた。当時、東声会会長の町井は、山口組組長の田岡と盃を交わし、兄弟分となっていた。そんな関係で、タウン誌の経営者から当時山口組が出していた「山口組時報」という“社内報”で働いてみないかと、声をかけられたこともあった。
「山口組時報」は、“出所”“入所”情報や、「今年も組員揃って餅つき大会」など福利厚生面にも心を砕いた楽しい記事が満載されており、この話には心がかなり動いた。
だが、神戸に行くことが条件だったため、結婚を控えた私には無理な話だった。
※SAPIO2015年3月号