「梨園の妻」――この言葉には、「たいへん」なイメージがつきまとう。伝統と格式がある歌舞伎の世界なだけに、和服を着こなすだけでなく、贔屓筋への挨拶、公演中はロビーでのお見送りなど様々。そして、「跡継ぎ」となる男児を産むことも求められるため、相当なプレッシャーだ。さらにたいへんなことがある。
歌舞伎の演目は、頻繁に上演されるものだけで50種類、総数で200種類以上あるとされる。妻は前述の着物選びだけでなく、夫に恥をかかせないためそれをひとつひとつ覚えなければならない。例えば、公演後の挨拶で後援会の人たちから演目の感想を求められた際にしどろもどろでは「あのお嫁さんは何も知らないから話せないのよ」と後ろ指をさされる羽目にもなりかねないからだ。
2012年に亡くなった中村勘三郎さんの妻、波野好江さんはかつて、演目を覚える苦労について次のように記している。
《歌舞伎の演目も「よくわからない」ではすみません。自分の知らない演目があれば私も主人に隠れて勉強します。主人にいい芝居をしてもらいたい、そのために体調管理から精神面のケアも含めてサポートする毎日です》(『文藝春秋』2009年11月号)
好江さんは父、そして弟2人も歌舞伎俳優という生粋の歌舞伎界生まれ、歌舞伎界育ち。そんな好江さんでも日ごろの努力は欠かせないというのだから、外から入ってきた人ならその数倍も数十倍も努力しなければいけないだろう。
もちろん覚えなければいけないのは演目だけではない。着付け、お花、お茶などは嗜みとして当然身につけるほか、季節の行事を覚えることが不可欠。1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、それぞれをさらに6つに分けた24節気、それをさらに細かく分けた72候を覚えることが求められる。
「歌舞伎界では“今日は重陽の節句だから”なんて言葉が日常会話で出てきます。それを聞いたとき、重陽が9月9日で菊の節句だとピンとこなくてはいけません。完璧に頭に入れておかなければ、家族内での会話さえ成り立たなくなってしまうのです」(歌舞伎関係者)
時候の挨拶、ご案内や挨拶状、年賀状などを送るのも妻の大事な役目。家の番頭さんと話し合いながらそれをこなしていく。以前は、何百枚、何千枚と出す年賀状はすべて妻の手によって書かれていた。挨拶の文面、毛筆の美しさ、すべてに妻の感性が求められるため、日ごろから審美眼を養っておくことが求められたという。
「現在は年賀状などを印刷ですませてしまう家も多いですが、手書きでお礼状を書く機会が多いのは変わりません。また、ご贔屓筋へ贈る品を選ぶのも奥さんの仕事で、そのセンスが問われます」(前出・歌舞伎関係者)
※女性セブン2015年3月5日号