ヤクザと政治家の関係は本来、絶対に表に出てはいけないものだ。だからこそそれが表沙汰になった瞬間、大きな醜聞となってきた。
「国民の皆さん、この秋に評判の悪い中曽根さんが退陣します。金儲けの上手い偉大な竹下先生を総理総裁にしましょう!」
昭和62年春、元三代目山口組白神組若頭の稲本虎翁(とらおう)総裁率いる政治結社・日本皇民党の街宣車十数台が国会周辺を行軍した。後に流行語にもなった“ほめ殺し”は、次期総裁を目指す竹下登を狙い撃ちにしたもので、その後も全国各地で執拗に繰り返された。
「稲本は、竹下が恩義のある田中角栄を裏切って『創政会』(後の経世会)を立ち上げたことに義憤を感じ行動に出ました。竹下の総裁指名工作をしていた金丸信は、小渕恵三、森喜朗、梶山静六、浜田幸一らを使って街宣を止めようとしたが、稲本は取り付く島もなかった。金丸が“手打ち金”として用意した30億円も『カネの問題ではない』と突き返されています」
そう語るのは、『稲川会極高の絆 二人の首領(ドン)』著者で政界と裏社会を取材してきたジャーナリスト・大下英治氏だ。
「頭を抱えた金丸は、政界のタニマチ的存在であり、裏社会とのパイプがあった東京佐川急便社長の渡辺広康に相談しました。渡辺に、稲川会会長の石井進(隆匡)を仲介役に立てることを提案され金丸は一瞬怯みましたが、結局は石井に仲介を依頼。稲本と石井の交渉は難航の末、『竹下本人が田中角栄に詫びを入れること』を条件に手打ちとなったのです。
約束通り、竹下は総裁選直前の昭和62年10月6日に田中邸を訪れましたが、娘の田中真紀子に門前払いを食らいました。その様子はテレビや新聞でも報じられ、竹下は大恥をかいてしまった。強(したた)かな彼も一連のほめ殺しは相当堪えたようで、円形脱毛症になったほどです」
※SAPIO2015年3月号