【著者に訊け】小野正嗣氏/『九年前の祈り』/講談社/1728円
『九年前の祈り』
今年35才になる安藤さなえは、カナダ人の夫と別れ、息子・希敏と2人、東京から生まれ故郷の大分の小さな集落に戻ってくる。環境の変化に対応できず、癇癪を起こす息子に不安を募らせるさなえ。胸によみがえるのは、9年前、町の女性たちと行ったカナダ旅行で、祈りを捧げる「みっちゃん姉」の姿だった―芥川賞を受賞した表題作など4編を収録。「上から小5、小3、年長、2才と4人の子供を育てている最中だからこそ、書けた面もあると思いますね」。
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生まれ育った大分県の海ぞいの集落、「浦」と呼ばれる小さな土地を舞台に小説を書いてきた。
芥川賞受賞の表題作など4つの小説を収めたこの本は、昨年、脳腫瘍で亡くなった兄に捧げられている。
「兄が余命宣告を受けた頃から、大切な人がいなくなるということをすごく意識して。ある人の不在ということを中心に、その人にかかわる人たちの物語を書こうと思いました」(小野正嗣氏、以下同)
4つの小説にただ1人、共通して出てくる、「タイコー」という名の人物に兄の面影が映されている。足の悪い年寄りの代わりに墓参りをしてやる優しさがあるその人は、姿は見せず人々の語りの中にだけ出てきて、別々の物語をゆるやかにつなぐ。
たとえば表題作では主人公さなえの知人ミツの入院中の息子として。さなえはカナダ人男性との間に男児をもうけるが、男に去られ、子供を連れて郷里に戻る。息子には発達の遅れがあるようで、急激な変化に対応できず、引きちぎられたミミズのように暴れてさなえを消耗させる。
入院したことを聞いたさなえが思い出すのが9年前、ミツらと行ったカナダの旅だ。はぐれた仲間の無事を祈るミツの姿に、ミツと自分の子供への思いが重ねられ、さなえの苦しみに一筋の救いがもたらされる。
「相手の存在をそのまま受け入れること。身の回りの現実を、拒むのではなくそういうものとして受け止めることも、祈りみたいなものだとぼくは感じているんです」
もともと大学でフランスの現代思想を研究していたが、カリブ海の文学にひかれて専攻を変えた。
「なぜひかれたかというと、ぼくが小さい頃から浴びるように聞いて育った、田舎のおじちゃんやおばちゃんたちのにぎやかな会話に近いからだったんじゃないかと思う」
小野さんの小説にも「まこと、まこと」「おとーし(恐ろしい)」など郷里の言葉がふんだんに出てくる。
大分の地元紙には芥川賞受賞の記事が一面に出た。候補になるたび、実家に記者が集まり、せっかく来てくれたからと近所の人が魚や料理を持ち寄り、宴会になっていたという。
東京に来たのは大学に入ったときで、その後、フランスに8年間、留学していた。今は東京に暮らすが、年に1度は4人の子供を連れて大分に帰っている。
「大分にいるだけではたぶん『浦』を描けなかった。東京や、フランスに行って見えてきたものがあって、離れたことで、『こんな面白い土地なんだ』って発見していったんですね。ぼくがこの先、いろんな人や場所、作品に出会うことによって、きっとぼくの書く『浦』のありようも変わっていくんだろうなと思います」
(取材・文/佐久間文子)
※女性セブン2015年3月19日号