過激派組織「イスラム国」による日本人殺害を受けて、安倍晋三首相は「罪を償わせる」と表明した。国際社会において、この発言が「軍事的報復」を連想させるのは間違いない。日本にも戦争に向かうムードが漂い始めているのか。
小林よしのり氏のベストセラー『戦争論』で紹介された元陸軍将校・高村武人氏の戦時中の日記には、砲兵隊中隊長としてパラオなど各地を転戦した際の様子が事細かに書かれている。
対米英戦初期の快進撃に「命知らずの我が日本陸軍に栄光あれ」と興奮し、戦場にありながら、「時々、潜船が御見舞に来るとは全くスリルだ。戦争ほどスリルたっぷりなものはあるまい」とまで断言する。この日記は、誰に公開する予定もなく、ただ高村氏がその時々の心情を率直に綴ったものだ。
つまり、人は戦争によって血を滾(たぎ)らせてしまうのだ。高村氏は昭和18(1943)年には帰国し、終戦は日本で迎えている。終戦を迎えたあと、彼は日記にこう書き記している。
「遂に戦争終わる。然し私は、生きることにも死ぬことにも生甲斐を感じることの出来た日々であったことを神に謝す」
ここで問題にすべきは、戦後日本において、戦争に興奮した人々の行動、言説は慎重に封じ込められてきたことだ。政治家もメディアも言論人も、戦争の恐怖だけを過剰なまでに喧伝しながら、それと表裏一体にあるはずの戦争の熱狂には言及すらしない。敗戦の結果、日本が戦争について語ることは、謝罪と反省の言葉以外、許されてこなかったからだ。
その結果はどうだろう。反戦平和を訴える人たちは、いまだに「平和を祈る歌」を歌い、「平和を祈るダンス」を踊れば、戦争にならないと信じているかのようだ。そんな観念的な「願い」が通じないことは、イスラム国による人質殺害事件を見るだけでも明白である。彼らは見たくないものを見ない。戦争、そして戦争を行なう人々の心から目を背け続けている。本当の戦争を知らずして、平和を語っても虚しいだけだ。
全米で記録的ヒットとなっているクリント・イーストウッド監督の映画『アメリカン・スナイパー』は、イラク戦争に従軍し160人を射殺した伝説の狙撃手クリス・カイルを題材にしている。カイルは戦場にいながら妻子を想うが、いざ家に戻ると戦地のことが頭を離れず、何度も戦場に戻ってしまう。まさに戦争の恐ろしいまでの「魔力」が描かれている。
血を滾(たぎ)らせ、狂気に陥ったまま、本意ではない戦いに突入することより愚かなことはない。
※SAPIO2015年4月号