【著者に訊け】飯嶋和一氏/『狗賓童子の島』(ぐひんどうじのしま)/小学館/2300円+税
なぜ教師を辞め、愚直なまでに小説と向き合う生活を選んだのか。約6年ぶりの新作『狗賓童子の島』を上梓した飯嶋和一氏(62)に、今更ながら訊きたくなった。
「私は母も祖父も教員でしたからね。そのままいけば確かに、人生安泰だった。ところが子供たちに何か偉そうなことを言うでしょ、全部自分に返ってくるんですよ。だったらお前は何のために、生きたいんだって」
本作では「大塩平八郎の乱」(天保8年)に連座した西村履三郎の遺児・常太郎の半生を軸に、後に「隠岐騒動」(明治元年)とも呼ばれた島民の自治獲得の闘いを描く。
パリコミューンに3年先んじたこの自治政府成立を、飯嶋氏は島民一人一人の感受性の事件として描き、流刑の島という舞台の特殊性と普遍性が絶妙だ。開国か攘夷かで揺れたこの時期、幕吏はなおも保身に走り、藩は圧政を強いた。そうした変化を受け止める人々の内なる変化こそが、時代を動かし、近代は良くも悪くも、その幕を開く。
「元々大塩の乱には、20年以上前から興味があって、例えば森鴎外は『大塩平八郎』の中で、大坂東町奉行所の元与力が私塾・洗心洞の塾生や部下の与力を唆し、大坂の5分の1を焼いたと、上から目線で批判している。ところが庶民のほとんどは大塩に同情的で、〈無尽講〉を装った汚職を暴き、無能で知られた東町奉行・跡部良弼やその実兄・水野忠邦をも摘発しようとした彼を、大阪では今も英雄扱いです。
しかも蜂起には河内国に広大な田畑を持つ履三郎ら、大塩四高弟と呼ばれる庄屋までが連座し、支配構造の末端で安泰に暮らせたはずの彼らがなぜ蜂起せざるを得なかったかを、あくまで下から目線で描きました」
大塩と養子・格之助が、美吉屋五郎兵衛宅で自刃し、丸焦げの首が晒されて以来、巷では父子の生存説が囁かれ、〈徳政大塩味方〉の幟を掲げた反乱も相次いでいた。幕府が残党狩りを急ぐ中、履三郎は伊勢から仙台へと逃れ、最後は江戸神田橋本町の願人坊主長屋で病死。一方、数え6つの常太郎は親類に預けられた末、15歳で隠岐に遠島処分となった。