「3.11」から4年が経ち、復興が進む東北。しかし、福島第一原子力発電所からわずか20km圏内にある福島県双葉郡川内村は、昨年10月に避難指示も全域で解除されたが、村のほとんどの人は戻っていない──。
特に汚染の被害が強かった村東部の下川内毛戸地区で稲作と酪農を営む草野雅勇(まさお)さん(80才)と良子さん(79才)夫妻は、震災が起きるまで毎日、38頭の乳牛の世話をしていた。
だが原発事故で避難するにあたり、農水省と福島県は乳牛の大半を殺処分し、食肉に回す方針を決めた。
「牛は品評会にも出して、ずっと一緒に暮らしてきた家族。和牛と違い大きいので、放してしまうと周りの家にぶつかって迷惑をかけてしまうと思い、牛舎につないだままにした。どうせ殺されるなら自分の手で餓死させようと思った。生まれ育った家で死なせてやりたい。そう思ってね」(雅勇さん)
夫妻は事故後、福島県西郷村や郡山市の仮設住宅に避難していたが、2012年6月、少しでも家に近い場所に、と村内の仮設住宅に移った。
「家を離れる時、ありったけのエサと水を置いていったが、ひと月も持たなかったんだと思う。一時帰宅した時には、みんな餓死していて、腐臭と死骸で牛舎は地獄絵図のようだった。かわいそうで、悔しくて、どうしようもなかった」
雅勇さんは、話しながらそっと目頭を押さえた。
「それでも、東電のことは悪く言うなって、言ってたんです」とそばで良子さんが話し始めた。
「原発ができる時、夫は建築作業員として手伝いに行っていたから、“おれが作った原発なんだから悪く言うな”って。でも、ここは地震でも津波がきたわけでもないし、家が倒壊したわけでもない。原発のせいで避難せざるをえなかったんですよ」
良子さんは語気を強めた。
「おれが和牛で成功すれば、仕事もできて、きっと若い人も戻ってくる。みんなが戻ってくれば、またいい知恵を出し合って発展できる。そのためにも1日も早く和牛を育てなければ。早くしないとおれがまいっちゃうし(笑い)」
焼酎で晩酌をしながら、草野さんは、川内村の未来に思いを馳せた。
※女性セブン2015年3月26日号