沖縄・尖閣諸島周辺の領海では、相変わらず中国船が傍若無人に侵入し、日中間の緊張は解けない。2012年9月に野田政権が尖閣を国有化して以降も中国側は挑発行為を繰り返してきた。国より先に尖閣購入計画を発表していた当時の東京都知事・石原慎太郎氏が、中国問題に詳しいジャーナリスト・相馬勝氏の直撃に答えた。
──知事時代、都による尖閣購入計画を発表しましたが、最終的には日本政府が国有化しました。今でも都が買えば良かったと思っていますか?
石原:都が買っておけば良かったと思うね。都が持ったら、石垣島など周辺の漁民のために灯台を建てたり、緊急避難用の舟だまりを造ったり、いろいろなことができたと思う。国は何もしていないから。
──尖閣に関心を持つようになったのはいつ頃から?
石原:若い頃から尖閣周辺の海にはダイビングに行っていたんです。豊饒な漁場で、地球を一周した黒潮が南のほうで湧き上がって様々な魚を運んでくる。石垣島の漁師からもダイビングスポットを教わった。その時に古株の漁師が、「ここで獲れる魚は油くさいことがある。きっと石油が湧いていますよ」と言っていたのを覚えています。
──果たしてその通りになりました。1968年に国連で尖閣諸島周辺海域に石油資源が埋蔵されている可能性が報告されてから、台湾や中国が尖閣の領有権を主張し始めた。1972年の日中国交正常化交渉では、田中角栄首相と会談した周恩来首相が尖閣問題についての話し合いを拒否していますが、話し合うと紛糾して交渉自体が潰れてしまう可能性があったからです。
石原:僕らは「反田中」でしたから尖閣も下手なことをしたら許さないという構えでしたし、国交正常化後の日中航空協定など実務協定にも最後まで反対しました。あの時は大学の先輩の大平(正芳)さんが外相だったけど、総理を禅譲してもらおうと思って結局、角さんの言いなりになってしまった。
外務省の役人が周恩来と大平さんの密電を僕ら青嵐会(自民党の派閥横断的若手の保守組織)に届けに来てくれたこともあったが、彼らは中国に押し切られるのが悔しくて、料理屋で飯も食わずに泣くわけですよ。結局、航空協定は中国側に押し切られて日本にとって何も良いことはなかった。
※週刊ポスト2015年4月10日号