高倉健が亡くなった昨年11月、中国のメディアでは、まるで土砂降りのような大量の追悼報道が、およそ一週間以上にわたって続いた。高倉健という俳優が中国で深く愛された理由のひとつは、主演映画『君よ憤怒の河を渉れ』(以後「君よ』)」が、1978年に公開されたことだ。トウ小平が「改革開放」に踏み切った、中国にとって極めて重要な意味を持つ年に、「自由」を描くこの作品の内容がかぶったこともあるからだという。ジャーナリストの三好健一氏が高倉健と中国の関係を紐解く。
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トウ小平は経済発展のモデルを日本に求めた。1978年、日本と中国は「日中平和友好条約」を締結する。日本人はそれまでは抗日映画の悪人のイメージが支配的だったため、日本との関係強化には対日感情の緩和が欠かせない。そんな時代の要請のもと、「君よ」を皮切りに数多くの日本の映画が中国に持ち込まれたのである。
そのため、高倉健以外にも、当時第一線で活躍していた日本の俳優が中国社会で広く知られるようになった。
山口百恵、栗原小巻、三浦友和、田中邦衛、田中絹代、中野良子、松坂慶子、吉永小百合、田中裕子などは、特に50歳以上の中国人で名前を知らない人はいない。中国人は当時、同じ映画をむさぼるように5回、10回と映画館に通って見続けたからだ。
ただ、そのなかでも高倉健の知名度や影響力は格別だった。高倉健に続くのは「赤い疑惑」が中国で大受けした山口百恵だろうが、社会現象になって中国人の価値観を変えたという点では、高倉健の右に出る日本人はいない。
「君よ」のあとも、高倉健映画は「幸福の黄色いハンカチ」「八甲田山」などが次々と上映され、1980年代は高倉健が最大のアイドルになった。
筆者が1980年代末に中国を貧乏旅行したとき、筆談で中国人と交流していると、必ずと言っていいほど相手は紙に中国語で「高(厄のがんだれをひとやねに)健」と書いてにっこりと笑ったものだった。
当時の人々の間では「高倉健を探せ」という言葉が合言葉になり、高倉健に似ている男性を見つけては、雑誌や新聞で紹介されることもあった。「あなた、高倉健風だね」というのが男性への褒め言葉になり、逆に「君よ」の悪役だった「横路敬二」(田中邦衛)は他人を馬鹿にする言葉として使われたという。
高倉健自身が回想しているのだが、1980年代に吉永小百合と田中邦衛とお忍びで上海に行ったことがあった。夜、町を歩いていると、自転車に乗った中国人に見つかり、すぐに大勢の群衆に取り囲まれた。言葉は通じなかったが、中国人たちは高倉健たちに向かって「君よ」の日本語の主題歌を合唱したという。
※SAPIO2015年6月号