シンガポール建国の父、リー・クアンユー(李光耀)元首相が3月23日に91歳で亡くなった。国葬には安倍晋三首相ら各国首脳をはじめ約2200人が参列し、カリスマ指導者の死を悼んだ。短期間でシンガポールを発展途上国から先進国へと発展させたリー氏とは、一体どんな人物だったのか? 1978年にシンガポール経済開発庁(EDB)のアドバイザーを務めた大前研一氏が語る。
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私は着任するや、シンガポールの人口(当時約230万人)では工業化は無理と判断し、サービス産業化ビジョンを提言した。ちょうど出来上がりつつあったASEAN(東南アジア諸国連合)を一つのバーチャルな国と考え、そのデファクト・キャピタル(実質上の首都)になって第二次産業ではなく第三次産業に特化する、というコンセプトだった。
つまり、金融、交通、通信、プロフェッショナル・サービスなどをASEAN全体に対して提供していけば、シンガポールの人口なら生きていけるはずだと考えたのである。しかし、それにリー氏は真っ向から反対した。イギリスのケンブリッジ大学を首席で卒業した彼は「第二次産業がなければ国家は成り立たない」という考えを持っていた。
私は、それは19世紀の古い考え方であり、第二次産業は他のASEAN諸国にあるのだから、デファクト・キャピタルになれば第二次産業を持つ必要はないと反論したが、彼は聞く耳を持たなかった。結局、リー氏はウィンシミウスというオランダの工業大臣を経験したコンサルタントを連れてきて工業化を推進したので、私はアドバイザーを辞任した。
その後、シンガポールはウィンシミウスの提言に基づき、船舶の修理業、カメラや時計の製造業などを導入したが、それらはことごとく失敗に終わった。このためEDBのニャンタン・ダウ長官から戻ってきてくれと要請されたが、その数か月前にマハティール首相に頼まれてマレーシアの国家戦略アドバイザーを引き受けていたので断るしかなかった。
これだけ述べるとリー氏は頭の固い指導者のように思えるが、そこからが彼の真骨頂だった。工業化を諦めたリー氏は180度舵を切り、サービス産業化をとことん推進したのである。
※SAPIO2015年6月号