1964年に刊行された『モモちゃんとアカネちゃん』シリーズは640万部、1967年の刊行絵本『いない いない ばあ』は1967年以来550万部を超える。570あまりの著作が今なお読み継がれている児童文学作家・松谷みよ子さんは、早くに離婚をして子供を1人で育てながら仕事をしたシングルマザーでもあった。「モモちゃん」のモデルでもある長女・瀬川たくみさんから見た松谷さんはどんな母親だったのだろう。在りし日の思い出を語った。
文/井上理津子(ノンフィクションライター)
〈享年89。「母は、かっこよすぎるくらいかっこよく、亡くなりました」。瀬川たくみさんは、晩年の松谷みよ子さんと穏やかな時間を共にした居室で、そう話し始めた。老衰で亡くなったのは、今年2月28日。密葬の後、多くの関係者が集って青山葬儀所で「お別れ会」が営まれたのは、桜が満開の4月4日。生前「こんなふうに死んでみたいわ」と語っていた西行法師の「願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」という歌どおりの旅立ちだったという。〉
亡くなる前の数日間、病室でオルゴールやCDをかけていたんです。「白鳥の湖」と「くるみ割り人形」と「愛の夢」、そしてエディット・ピアフ。どれも母が大好きな曲です。耳は最後まで聞こえるんですね。ひっきりなしにかけていると、寝ながら手を動かし始めたんです。「白鳥の湖」が鳴っている時には体まで動かしたので、「ママ、踊ってるの?」って聞くと、「見られちゃった? 恥ずかしい」というふうに、にっと笑ったんですよ。亡くなる4日前でした。
実はその少し前に、私が担当医に「老衰かもしれません。覚悟しておいてください」と告げられた時、母が急に起き上がろうとしたのです。まるで「死んでたまるか」というように何度も何度も…。最後までそういうところがありました。
〈松谷みよ子さんは骨折のリハビリのために、1年あまり前から主に施設で暮らしていた。体調のいい時は自宅に戻り、たくみさんと穏やかな日常を過ごした松谷さん。本誌が昨年11月にインタビューした際もお元気そうだった。たくみさんはその頃、母子でこんな会話を交わしている。〉
私が「こんなに元気になったんだから、もう一回現役に復帰しようよ」と言ったら、母は「いやだ。いっぱいいっぱい頑張ったから、もういい」って。
この8年間、母は毎年のように1回から多い時は3回も入退院を繰り返し、そのたびに不死鳥のように蘇ったんです。そしてそのたびに大好きな歌舞伎座に行くことができた。昨年5月の骨折から、リハビリをして歩けるようにまでなり、今年1月には一緒にシネマ歌舞伎を観に行ったんです。その頃から老衰の症状だったのか、眠り込んでしまうことが多くなりましたが、起きている時は冴えていて、スタッフも含めてたくさん話はできました。
最後もす~っと息を引き取りましたからね。人生の終焉を自分で納得したのだと思える、とても優しい顔つきでした。だから私は、「ママ、よかったね。パパのところへ行けて」と思えたんです。
※女性セブン2015年6月11日号