ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏の週刊ポストでの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、力道山にスカウトされブラジルから帰国した猪木のデビューから苦悩の若手時代のエピソードをつづる。
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アントニオ猪木(本名・猪木寛至)は昭和18年2月20日、神奈川県横浜市鶴見区生まれ。昭和32年2月、14歳の誕生日をまえに一家でブラジルに移住。
サンパウロの青果市場で働いていたところをブラジル遠征中の力道山にスカウトされ、昭和35年4月、帰国。力道山門下に入門した。
ブラジル遠征中に力道山が親しい新聞記者に送った私信にはこう記されていた。
「将来有望の新弟子を発見し、日本に連れて帰る。当年17歳。身長1メートル92センチ、体重90キロ。昨年の全ブラジル陸上選手権・少年の部で砲丸投げと円盤投げの2種目に優勝。同君の長兄は空手選手、次兄も長距離選手というスポーツマン一家の三男」
この書簡は力道山のブラジル遠征に同行した長沢秀幸(実業団相撲から昭和28年にプロレス転向)が代筆したものとされ、手紙のいちばん最後の署名だけが力道山の自署だったという。
文中にある“スポーツマン一家の三男”なる記述は正確ではなく、猪木の自伝『燃えよ闘魂』(東京スポーツ新聞社/出版局)には「男が七人、女が四人。わたしは下から二番目の六男坊主である」とある。
力道山がブラジル遠征から帰国したさい、羽田空港で報道関係者に配布されたメモには猪木の本名が「寛至」ではなく「完至」と記されていたが、これは前出の長沢が「寛」を「完」と書きまちがえたものではないかと思われる。この「完至」表記は昭和40年代まで訂正されなかった。
入門当時の“公式プロフィール”は「1943年、ブラジル・サンパウロ出身の日系二世」。カタコトの日本語しか話せない日系二世という“設定”だったから、猪木は公の場で日本語を話すことを禁じられた。
ブラジル在住時代の陸上競技での活躍についてもこれといった資料(現地の新聞記事など)は提示されず、当時の新聞、雑誌は力道山のコメントをそのまま活字にしていた。いまになってみると“猪木完至”の素性はつねにどこかフィクションの香りを漂わせていた。
■斎藤文彦(さいとう・ふみひこ)/1962年東京都生まれ。早稲田大学大学院スポーツ科学学術院スポーツ科学研究科修了。コラムニスト、プロレス・ライター。専修大学などで非常勤講師を務める。『みんなのプロレス』『ボーイズはボーイズ-とっておきのプロレスリング・コラム』など著作多数。
※週刊ポスト2015年6月5日号