スポーツに関しては、「映像判定全盛期」である。審判が一旦判断したものであっても、物言いがつけば映像による判定となるケースが、様々な競技で増えている。審判の威厳は失墜し、誤審は根絶するのか。スポーツジャーナリストの生島淳氏が「誤審」の現在について語る。
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テレビのバラエティー番組で、キレ味抜群のトークを見せる柔道家の篠原信一を見ると、ついつい見入ってしまう。
現役時代から彼は言葉の宝庫だった。私の取材の中でも、「アマチュアに、引退する気がなければ引退なし」とか、「負けると思えば、なお負ける」など、リズミカルな名言をたくさん聞いてきたが、このところ磨きがかかっている。
しかし、こうも思う。
「もし、あの『誤審』がなかったら、彼はどうなっていたか?」
篠原がシドニー五輪(2000年)で金メダリストになっていたら、違った人生が待っていたかもしれない──。
誤審は、アスリートの人生を左右する。「金」と「銀」では生涯収入が大きく変わる。「メダリスト」と「入賞者」でも大きな差が出る。
20世紀終盤から21世紀はじめにかけてのスポーツ界の問題は、大きな誤審がよりによって、オリンピックや世界選手権といった大きな舞台で起きてしまったことだ。
スポーツがワールドワイドになるにつれ、各競技はプレー面では大きく進歩したが、審判技術がそれに追いつかなかった。
「篠原の悲劇」は、柔道とは縁遠いニュージーランドの審判がオリンピック決勝の舞台に立ってしまったことにある。柔道の審判技術では、日本人が世界一だ。しかし、審判員の枠にも国や地域で割り当てがある。それは、競技と同じ。オリンピックだからといって、必ずしも最高のレフェリングが保証されているわけではなかった。
※週刊ポスト2015年6月19日号