「安倍家」「岸家」という名門政治家血族の取材を40年以上にわたって続けてきた政治ジャーナリスト・野上忠興氏が『週刊ポスト』でレポートしている安倍晋三首相に関するノンフィクション。1982年、父・晋太郎氏が外務大臣に就任、その秘書官を安倍氏が務めて以降の政治家としての歩みを追う。(文中敬称略)
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「お前、参院選に出ないか」
祖父・岸信介は亡くなる2~3か月前、病床に安倍を呼び、そんな“遺言”を与えた。父・晋太郎の秘書になって5年目、32歳の時だった。
その年(1987年)、山口選出の自民党参院議員・江島淳の急死を受けて、補欠選挙が予定されていた。卒寿を迎えていた岸にすれば、自分の目が黒いうちに孫を政界に送り出しておきたかったのかもしれない。安倍はこう述懐している。
「議員になれと一度たりとも言ったことがない祖父がそう話したのは、余命いくばくもないことを覚悟して、僕の気持ちを聞きたかったのだろう。要するに、祖父はチャンスをものにすることが大切と言いたかったのではないか」
岸の思いに安倍は出馬に傾き、地元・山口でも父・晋太郎の後援会を中心に補選擁立の動きが高まった。だが、出馬は幻に終わる。
江島の息子・潔(現参院議員)が出馬に意欲を示し、晋太郎が支援の言質を与えたからだ。晋太郎とライバル関係にあった地元の自民党有力代議士が水面下で待ったをかけた事情もある。晋太郎は地元で安倍擁立を迫る県議たちを集め、こう断を下した。
「晋三の出馬は駄目だ。江島君には後のことはちゃんとやるといってある。出すわけにはいかない!」
結局、補選には安倍でも江島でもなく、宇部市長の二木秀夫が出馬、当選する。
実は、その前にも、安倍には出馬計画があった。晋太郎の地盤・下関と関門海峡を挟んだ北九州(旧福岡4区)から衆院選に出馬させようという動きだ。晋太郎の秘書が根回しし、小倉に事務所を借りる準備まで整えていたが、この話も晋太郎が福田赳夫から派閥を引き継ぎ、自民党総務会長に就いて多忙になる中で、立ち消えになる。
仮に父の強固な地盤を継がず、政権への風向きによって当落が左右される都市型選挙区の旧福岡4区から出馬していたら、安倍の将来は様変わりしていたかもしれない。
安倍の参院選補選出馬を断念させた会合で、晋太郎は息子の将来について県議たちにこう言明した。
「俺があと10年は頑張るから、晋三が出るのは俺が辞めてからだな」
安倍を身近に置き、政治家修行を積ませる必要がある──との判断が晋太郎にあったと筆者は見る。
※週刊ポスト2015年6月19日号