軍艦島の工業所エリア(右手前は30号棟、左奥は31号棟)
「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして、6月28日から開かれる世界遺産委員会で遺産に登録される可能性が高い長崎の「軍艦島」。1870年に石炭採掘が始まり、面積6.5ヘクタールの小さな島に最盛期には5000人以上が住んだ。閉鎖から41年、人々が生きた証がこの島にはいまなお残されている。これまで20回以上軍艦島を訪れた写真家の酒井透氏が、島の内部の「非公開エリア」をリポートする。
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長崎港を出た船が、湾の出口にかかる女神大橋をくぐって東シナ海に出ると、荒波が船体を大きく揺さぶる。正面右に見える中ノ島の向こうから、徐々に姿を現わすのが端島(はしま)、通称・軍艦島だ。
およそ40分の航路。梅雨時の今は特に波が荒く、船酔いする観光客も多い。しかし、これまで20回以上、軍艦島に渡った経験からいえば、梅雨のどんより曇った空を背景にまとう雨に濡れた軍艦島は、廃墟としての雰囲気が際立ち、他の季節よりも存在感を増す。
桟橋から上陸し見学ルートに沿って進むと、丘の頂上に建つ幹部職員用の住宅や端島小中学校などを見ることができる。
さらに歩を進めていき、見学ルートの半ばにさしかかると現われるのが、レンガ造りの第三竪坑捲座など、日本の「産業革命」を支えた鉱業所だ。
鍛冶工場や日本初のコンクリート建築による高層住宅などが並ぶ南西側で見学ルートは終わるが、非公開となっている島の内部に足を踏み入れると、軍艦島はまた別の顔を見せる。