習近平国家主席のやり方は、ある意味で中国共産党の“お家芸”だ。歴代指導者たちは常に失脚や暗殺に怯え、同志や部下の粛清を繰り返してきた。その血塗られた歴史を、中国関連の著書を多数持つ評論家・宮崎正弘氏が語る。
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習近平の反腐敗運動など手ぬるいものだ。中国共産党(以下、中共)の熾烈な権力闘争の歴史のなかで、空前絶後の「極悪人」は中華人民共和国の生みの親、毛沢東その人である。
1949年10月1日、北京の天安門壇上で中華人民共和国の建国を宣言した毛沢東は、返す刀で対抗勢力の民主党派を粛清した。さらに国民党の残党や地方の抵抗勢力を糾弾し、次々と公開銃殺を行った。当時の処刑人数はおよそ70万人とされる。また、中共への批判を歓迎する「百家争鳴」を呼びかけ、実際に声をあげた知識人50万人以上を「右派」として失脚させた。
毛沢東が1958年より断行した急進的な社会主義建設の試みである「大躍進政策」では、原始的な政策に中国全土で飢饉が発生し、5000万人以上の農民が餓死したとされる。毛沢東と同郷であり、紅軍時代から行動を共にした彭徳懐はこの惨状を見かね、1959年、避暑地・廬山で開かれた会議中に政策転換を促す私信をそっと毛沢東に送った。
しかし、飼い犬に手を噛まれたと感じた毛沢東は激昂し、会議参加者に書簡を公表、彭徳懐を「右翼日和見主義者」と弾劾して、職を解き北京郊外に監禁した。政敵の言動の瑕瑾(かきん)を探し出し、レッテルを貼って徹底的に吊し上げるのが毛沢東の常套手段だった。
のちの文化大革命の際、哀れな彭徳懐は毛シンパから殴る蹴るのリンチを受け、肋骨2本を骨折。さらに直腸がんの治療も許されず、糞便に塗れたベッドに放置され失意と共に世を去った。
※SAPIO2015年7月号